ラジオを主戦場に長年活躍を続け、伝説的歌番組『THE夜もヒッパレ』で“DJ赤坂”として忘れがたい存在感を放った赤坂泰彦さん(61)。実はブレイク前夜に、バンド・東京JAPのドラマーとしても活動し、ヒット曲『摩天楼ブルース』を生み出してもいます。活動休止後、次々と就職していく同級生たちに「赤坂、夢じゃ食えねえんだぜ」と言われたという知られざる“下積み時代”にはじまり、赤坂さんがテレビに登場するまでの前日譚を伺いました。(全3回の1回目/#2#3に続く)

赤坂泰彦さん

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「東京JAPでドラムやってた赤坂です」とは言わなかった

――赤坂さんがラジオのディスクジョッキーとしてブレイクされる以前、東京JAPというバンドで活躍していたことを知らない方も少なくないと思います。

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赤坂 『FMナイトストリート PAJAMA PRESS』(JFN、88~94年)で本格的にディスクジョッキーをやり出した頃は「東京JAPでドラムやってた赤坂です」とは言いませんでしたからね。そこじゃないところで勝負したいという気持ちがあったし。まぁ、後々になって知られていきましたけどね。

――どういった経緯で東京JAPは結成されたのですか?

赤坂 中学の頃にキャロルのコピー・バンドを組んでから、ずっとバンドをやっていたんです。それで、高校を出てから組んだバンドがスカウトされたんですよ。喜んでデモテープを録りに行ったら、その事務所から「ウチがほしいのは君だけなんだ」と言われて。「それはできないです」と答えたんですけど、他のメンバーは「いや、俺は別にプロになる気はないし……」「就職しないと」みたいな感じでね。

 そんな時に、東京のあちこちで活動していたジャンル的に近いバンドのいくつかも、解散していたり解散間近だったんです。僕を含めた、そういった連中にミスタースリムカンパニー(※)から一緒にレビューをやらないかとオファーが来たんです。

(※)日本のミュージカル劇団。 1975年9月、東京キッドブラザースを退団した深水三章が結成。

 

――赤坂さんは、ミスタースリムカンパニーの劇団員だったわけではないんですね。

赤坂 ミスタースリムカンパニーの役者たちと一緒に、『ウエストサイド物語』(61年)や『グリース』(78年)をごっちゃにしたようなレビューをやれるバンドを作りたいという話で、それに乗ったんです。

 D-Dayシアターというミスタースリムカンパニーの小劇場があったので、そこで僕らも練習ができる。スタジオ代がかからないから、これはいいやって。で、ミスタースリムカンパニーの役者4人と僕らのバンドが5人か6人、10人くらいでレビューをしましたね。

 周りから見ればスリムの一員だったかもしれないけど、あくまでミスタースリムカンパニーの傘下にいたという感じですね。