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ディスクジョッキーからすれば、ハガキの束は札束

――そうした時期を経て、1988年に『FMナイトストリート PAJAMA PRESS』のディスクジョッキーを務めて注目されます。番組にはどのような経緯で?

赤坂 ニッポン放送でデモテープを回してくれたプロデューサーのドン上野(上野修)さんが、「ニッポン放送を辞めFM界を開拓したい、FMで『オールナイトニッポン』に負けない深夜放送をやりたい」と動き回っていたんですよ。で、上野さんが関わっていた『PAJAMA PRESS』で急遽欠番が出て、出てくれと呼ばれて。レコードを持ち込んで、ガッツリ選曲して2時間やってね。それから、2~3週間して「レギュラーでやってほしい」と。

――当時のラジオリスナーだった者としては、たしかに『PAJAMA PRESS』で、どこかハイソといったFMのイメージが良い意味で崩れた気がします。ディスクジョッキーと聴く側の距離が異常に近いというか。

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赤坂 最初は自分の波がぎこちなくて、東京JAPのことも含めて明かさなかったんです。リスナーからのハガキが20枚、30枚しか来ないのは、自分をさらけ出していないからだと、この頃もまだ、むしろ開き直っていました。

 でもやっぱり、「小学生の頃はこんなガキだった」とか「中学でコレを聴いてやられた」とか、僕が何者でどう生きてきたかを喋らないと受け入れてもらえないなと。次第にシフトチェンジしていったら、「赤坂、期末で赤点取っちゃったよ」みたいなハガキが来るようになりました。最終的にはハガキの山で向こう側が見えなくなるくらい。ディスクジョッキーからすれば、ハガキの束は札束なんで、ものすごく嬉しくて。

 

葛藤しながら臨んだ『赤坂泰彦のミリオンナイツ』で大ブレイク

――そして、1993年からの『赤坂泰彦のミリオンナイツ』(TOKYO FM)でディスクジョッキーとしてブレイクされます。

赤坂 実は、最初は乗り気ではありませんでした。というのも、『ミリオンナイツ』の前にTOKYO FMで夕方の帯番組『TOKYO POP ARENA』(89~90年)を任されていたんです。なにをやってもうまくいかないと言われていた時間帯だったけど、その番組をアシスタントの方と続けていって『DANCE SHIP TOKYO』(90~93年)という番組の途中から、念願の一人DJスタイルを任せてもらいました。選曲も好きにやらせてくれたし、リスナーも付いてきてくれて、自分のなかで当時のデッドゾーンだった夕方帯を開拓した自負がありました。

 そこで「行きましょう。夜10時台」と仰っていただいた。ずっとひとりで番組をやりたい思いを抱えていたもんだから嬉しかったけど、そうした自負も芽生えていただけに少し葛藤がありましたね。