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『摩天楼ブルース』のヒットがターニングポイントに

――D-Dayシアターでは、赤坂さんたちのバンドも単独でステージを打てたんですか?

赤坂 やらせてもらっていました。ファーストコンサートは超満員で、ライブは常にソールドアウト。お金も入るから、多少のギャラは売れたチケットの枚数の配当でしたが、全部打ち上げ代で消えてました(笑)。

――そのバンドが東京JAPになったわけですか。

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赤坂 最初はSLIMと書いてスライムというバンドだったけど、誰もそう呼んでくれないので変えたんです。「俺たち全員が東京出身だよな。で、アメリカ人はヤンキーって言うじゃん。ヤンキーでニューヨークの人間だったらニューヨーク・ヤンキースって言うじゃん。じゃあ、俺らは東京JAPじゃん」という話になって。

 その時に、バンドのテーマとコンセプトも“ネオ東京モダン”と銘打とうと決めたんです。戦後の焼け野原だった東京に、海外の音楽が入ってきて活気づいたみたいなイメージ。それを具現化し、パワーにできないか……なんて話し合って。革ジャン=ロックンロールみたいに古くからあるスタイルではなく、全員がサスペンダーをして、頭はリーゼントだけど開襟シャツを着るようなビジュアルにしようって。

――東京JAP単独のステージは、どういった構成だったのですか。お話を伺っていると、かなり凝ったステージだったのではないかと。

赤坂 オープニングは、牧師が祈っているんです。暗転して小さな明かりが点くと、牧師の横でパンクの男がドラム缶を叩いている。それがだんだんとリズムになって、僕たちの演奏が入っていきます。薄明かりがパァーッと広がったところで、ズドーンという音と同時にライトが客席に向けられて、750ccのオートバイが小屋の非常口から突然入ってきて、客席の前に飛び出てくるみたいな(笑)。バイクに乗ってる奴がバンバン吹かすものだから、ステージ上は酸欠状態になっちゃってましたね。

 

安全地帯さんはレベルが違いすぎる、チェッカーズ路線も…

――東京JAPといえば『摩天楼ブルース』(※)ですよね。ヒットを飛ばしながらも、赤坂さんはラジオのほうに心が傾いていたわけですか。

赤坂 後付けになるけど、やっぱり『摩天楼ブルース』はターニングポイントになりましたね。バンドもより音楽的になりたいと考えるようになって「この路線でやっていくのか?」というのが出てきたけど、安全地帯さんなんかと比べたら僕らはレベルが違いすぎてやっていける自信もない。だったらチェッカーズ路線にしてみるかと言っても、もう若くはない。僕は僕でラジオの世界にも行きたいと。

 揺らいでいたところに、TBSラジオが『摩天楼倶楽部~思い切り午前3時~』(85年)という番組を持たせてくれたんです。番組ではメンバー全員で喋っていても、僕は自分の気持ちを強く出すことを意識して話していたんですよ。そこをディレクターが買ってくれたのか、ピンのコーナーを設けてくれて。結局、東京JAPは1986年に活動を休止するんですけど、『摩天楼倶楽部~』の後番組を僕に任せてくれたんです。

(※)1984年10月に発売された、東京JAPの5枚目のシングル。小泉今日子主演のドラマ『少女に何が起ったか』(TBS、85年)の主題歌に起用されてヒット。