新日本とテレ朝の賭け
藤波の凱旋帰国と、初代タイガーマスクのデビューには共通点が多い。藤波のMSGでのWWWFジュニアヘビー級タイトル挑戦は、ビンス・マクマホン・シニアと懇意にしていた新日本の“過激な仕掛け人”こと新間寿営業本部長(当時)が、「うちの有望な若手を、ぜひMSGでデビューさせてほしい」と申し入れたことで実現したものだ。そしてタイガーマスクのデビューも、新間と漫画『タイガーマスク』原作者の梶原一騎のラインから、テレビ朝日系アニメ『タイガーマスク二世』の放送開始に合わせて実現したもの。
また、日本では無名だった若手選手の試合が、テレビのゴールデンタイムで大々的に放送されたという点でも同じだ。その時に感じた重責を藤波はこう語る。
「新日本プロレスというのは旗揚げ以来、猪木さんの一枚看板で坂口(征二)さんが脇でサポートする形だったんだけど、あの頃は猪木さんだけじゃなく、新しいスターを必要としていたんだろうね。それで最初に白羽の矢が立ったのが俺で、次が佐山だったんだと思う。でも、海外に出る前は俺も佐山もいち若手でしかなかったわけだから、俺のWWWFジュニア挑戦やタイガーマスクのデビューは、 新日本にとっても、テレ朝にとっても一つの賭けだったんだろうね。
ドラゴン・ロケットの始まり
俺の場合、あれだけ御膳立てしてもらって、ニューヨークまで中継スタッフを飛ばしてもらったのに、そこでダメな試合をやったらすべて台なしになるわけだから。そのプレッシャーは大変なものがありましたよ。しかも試合前、新間さんがすごい顔して言ってきたんだよ。『おい、日本でテレビ放送するんだから、何かインパクトある技をやれよ!」って。こっちは緊張して、それどころじゃなかったのにさ(苦笑)。
それでもMSGの時は、カール・ゴッチに習ったドラゴンスープレックスを用意していたからよかったけど、群馬県の高崎市でやった凱旋帰国第1戦(78年3月3日、vsマスクド・カナディアン)の時は困った。また試合前に新間さんが来て、『カンピオン(チャンピオン=藤波)、みんな注目してるんだから、なんかやれよ』っていうんだよね。『なんかやれ』って言われても、他に見栄えのする新技なんてないのにさ(苦笑)。
それで仕方がないから、メキシコ修行時代に現地のレスラーが使っていた技、トペ・スイシーダを見よう見まね、一か八かでやってみた。それがドラゴン・ロケットの始まり。練習なんてしたことなかったし、メキシコで見た時は場外にマットなんかなかったから『よくこんな危険な技を使うな』と思ってたんだけど。当時の俺は体重も軽くて動きも速かったので、一直線に飛んでうまくいったんだよね。だからドラゴン・スープレックスもドラゴン・ロケットも運よく両方とも成功したからよかったけど、失敗したらその後の俺はなかったかもしれない。こっちも必死だったよね」