人にあたえられた資質とは
ここであらためて思うのだが、そもそも人にあたえられた資質とは、一体なんなのか。
人はそれぞれ全くちがう資質をもって生まれてくる。誕生する時間から格差はあるのだ。
いや、すでにその前からさまざまな差異の中に人は生まれてくる。そこには当人の努力とか、誠意とか、情熱とか、愛とか、そんなものは全くはいりこむ余地がない。
私はアジア人の一人として九州に生まれた。体力や運動神経にもめぐまれず、努力が苦手な痩せ型の少年として育った。数学も、外国語も不得意で、本を早く読むことだけがとりえだった。両親は九州の山村の出身で、ともに学校教師だった。ものごころついた時には、かつての日本帝国の植民地に暮していた。
そのどれも自分で選んだことではない。すべては、どこからかあたえられた形で受けとっただけである。戦国時代に生まれたかったと口惜しがっても、仕方がないのである。その仕方がない、ということに対して一体どう考えればよいのか。
私たちはさまざまなものを選ぶことができる。モノを選び、人間関係を選び、職業を選び、配偶者を選ぶ。その限りにおいては自由な人間である。
自由とは現在の私たちにとって、なによりも大切なものだ。基本的人権として尊重されるのが自由である。
しかし、現実には完全な自由などどこにもない。
私たちは望めば国籍を捨てることも、選ぶこともできる。それなりの制限があるのは当然だが、決して不可能なことではない。
しかし、私が仮りに日本人であることを放棄したとしても、アジア人であり、もともと日本人であったことを変えることはできない。
筋肉はトレーニングすれば変えることができる。かなり短期間で痩せ型の友人が、筋肉隆々のマッチョに変身したことに驚かされたこともあった。しかし、彼の身長は以前のままだった。目下のところ身長をのばす方法はみつからないようだ。
最近では顔かたちは人工的に変えることができるらしい。それも二重瞼にするとか、豊かな胸にするとかいった程度の話ではない。
しかし、問題は人が自分の人種や、生まれてくる時代や、両親や、外見、体型などを自分で選択できないという点である。
絶対音感といわれる聴覚をもつ人もいる。その反対に音階やリズムに難がある人もいる。
資産家の家に生まれる子もいれば、貧しさの中で育つ子供もいる。
根が丈夫で、ほとんど病気らしい病気もせずに長生きする人もいる。どんなに摂生につとめても、絶えず病院のお世話にならなければならない人は少くない。
身体だけでなく、気質というものもある。個性というものも、才能というものも、努力すれば必ず花開くというわけではない。