人はなぜ様々な差異のもとに生まれてくるのか
「玉 磨かざれば光なし」
とは、よく耳にする言葉だ。しかし、石はどうなのか。磨けば光る玉もあれば、道ばたの石ころもある。
この自分が、はたして磨けば光彩陸離(こうさいりくり)たる玉なのか、それとも磨いても無駄な石なのか。それは誰にもわからない。だから頭から諦めずに磨いてみよ、と古人は言ったのだろう。何もしなければ光らざる玉として、無益に埋もれてしまうかもしれない。それは惜しいではないか、と。
しかし、私がこだわっているのは、なぜ人間は、玉とか石とかに区別されてこの世に生まれてくるのか、という一点にある。大声では言えないその事に対する答えは、はたしてあるのか。
なぜ人間はそのように様々な差異のもとに生まれてくるのだろう。
絶対的な神、というものの存在を信じる人びとの中には、それを神のおぼしめしだと考える立場もある。いわゆる予定説、天命説というやつだ。
また宿業という受けとめ方もある。その人の前世の行為が、現在をつくりだし、いまの生き方が来世をきめる、という説である。
しかし現代の私たちは、前世とか来世とかいう考え方になじまない。唯一の絶対神を信じるほど純粋な信仰心もない。
書店の店頭には、あきれるほど多くの自己啓発本が並んでいる。運命を変えるのは、本人の努力であるとする立場で書かれた書物だ。
発想を変える。ちがった物の見方をする。ちょっとしたヒントに気づけば、人は運命を創りだすことができると説かれている本がほとんどだろう。
しかし、世の中には変えられるものと、変えることのできないものがある。もしこの世界に真理というものがあるとすれば、それは黒か白かということではない。黒でもあり、また白でもある。それが究極の答えではないか。
人は努力することで、自分の運命をつくりだすこともできる。しかし、どれほど真剣に努力をしても、できないことはある。
世の中は善意にみちているか。そうだ、人間の善意というものは必ずある。私の中にもあるし、また他人の中にもある。
同時に、この世界が悪意にみちていることも事実だ。私の心にどす黒い憎悪があり、他人は他人に対してけだものにもなりうることを認めなければならない。
私は差別を憎む。それでいながら自分の中に他を差別する心が宿っていることを否定できない。