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「血を抜かれたあとに、白い液体を注いで…」売血でその日をしのいだ若い頃、五木寛之が送った不運つづきの大学時代

『選ぶ力』より#2

2021/12/21

source : 文春新書

genre : ライフ, 読書, ライフスタイル

note

追突されやすいタイプの人と、そうでない人

 走行中に前の車を1台抜かすか、または周囲の風景に見とれて、ちょっと速度をおとすか、それだけで数秒のちがいがでるはずだ。

 1秒で16メートル以上の位置のちがいがでるとすれば、不運といってしまうには、あまりに残念な事故ではないか。

 人の毎日の暮らしも、そういった無数の運不運の連鎖によって成り立っていると言っていい。

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 思ってもみなかったような幸運もある。また非運としかいいようのない不幸にみまわれることもある。

 私は若いころから何十年も車を運転してきた。一時期はレーシングチームを結成していたこともある。徳大寺有恒さんを総監督にむかえて、マカオ・グランプリのワンメイク・レースに参加したこともあった。

 しかし、この間ずっと大きな事故にあわずにきたことは、じつに幸運だと思わないわけにはいかない。どんなに注意して細心な運転を心がけていても、もらい事故などは避けることはできない。

 私の知人の編集者で、2年間に3度、追突されたというドライバーがいた。赤信号で停止していたところを、うしろからぶつけられたというのだから本人の責任ではない。

 とはいうものの、追突されやすいタイプの人と、そうでない人がいるのも事実である。

不運つづきの時代

 私は子供のころ、そこそこ幸せな時代をすごした。戦争中で、いろんなことはあったものの、決して自分を不幸だと思ったことはなかった。

 しかし、1945年の夏、私が13歳のときに日本が敗戦をむかえてからは、突然、不運つづきの時代がはじまる。することなすこと、すべてが裏目にでるような日々だった。

 少年期から青年時代を、私は不運な人間としてすごしてきたように思う。

 両親もはやく世を去ったし、自分自身の体調もよくなかった。いつも金がなく、大学も途中でやめざるをえなかった。

 しかし、不幸と不運とはちがう。

 私は若いころ、自分はなんという運の悪い人間だろうと、しばしば天をあおいでため息をついたものだった。

 だが、ふしぎなことに、自分を不幸な人間のようには思わなかった。

 不運が重なっていても、とりあえずなんとか生きている。敗戦後の体験からすれば、とりあえずその晩、泊る場所があり、その日いち日、なんとか飢えをしのぐことができただけでも幸せというべきだろう。

 私は九州の田舎から上京して、東京の大学に入学した。上京するときの所持金は、たしか5万円そこそこだったと思う。

 1カ月もすると、その金も底をつき、滞在できる部屋もみつからなかった。

 4月、5月と、1952年の春から初夏にかけて、私はいまでいうホームレスの生活をつづけた。

 大学構内の地下室の入口や、体育部の荷物置き場など、いろんなところに寝泊りしたが、結局、大学当局の警備員に発見され、追いだされることが多かった。

 そのうち大学の近くの神社の社殿の床下に寝場所をさだめた。祭礼用の幕や、道具などのあいだに横になると、じっとりした湿気が体にまとわりつくようだった。

 それでも夜中に警備員にたたき起こされて、追いたてられるよりは、はるかにましだった。