下馬評を大きく覆し、2年連続最下位からのペナント制覇を果たしたオリックス・バファローズ。躍進の大きな要因の一つには“若手選手の活躍”があった。プロ入り後に花開くアマチュア選手を、同チームはどのように発掘してきたのだろうか。
ここではスポーツライター喜瀬雅則氏の著書『オリックスはなぜ優勝できたのか 苦闘と変革の25年』(光文社新書)の一部を抜粋。アマチュアスカウトグループ長を務め、現チームの中心選手をスカウティングしてきた加藤康幸氏の考え、そして意外なキャリアを紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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7年前の予言
2021年(令和3年)8月7日、横浜スタジアム。
日本野球界の悲願ともいえる東京五輪での「金メダル」をつかみ取った。
侍ジャパンの24選手。その歓喜の輪の中に、オリックスの2選手がいた。
吉田正尚は全5試合で「3番」を務め、20打数7安打、打率.350をマークした。
決勝の米国戦でも、8回1死二塁のチャンスでセンター前へヒットを運ぶと、米国のセンター、ジャック・ロペスが送球ミスを犯す間に二塁走者の山田哲人(ヤクルト)が生還、勝利を決定づける大事な2点目を呼び込んだ。
山本由伸は、五輪初戦のドミニカ共和国戦、ノックアウトステージ準決勝の韓国戦と2試合に先発した。ドミニカ共和国相手には6回無失点。宿敵・韓国相手にも5回まで2安打無失点、続く6回途中にピンチを招いて降板したが、開幕戦と準決勝という、絶対に負けられない重圧の中で、23歳の若き右腕はいずれの試合でも先制点を相手に与えていない。
オリックスの投打の柱が、ジャパンの「クリーンアップ」の一角と「エース」を担った。
これを、7年前に“予言”していた男がいた。
ここでまず、東京五輪に関する時系列をおさらいしてみる。
日本が「東京五輪」の招致に成功したのは、2013年(平成25年)9月の国際オリンピック委員会総会でのこと。ただ、その時点で「野球」が競技種目に入るかどうか、決まってはいなかった。
開催都市が提案する追加競技として「野球・ソフトボール」「空手」「スケートボード」「スポーツクライミング」「サーフィン」の5競技の追加が正式決定したのは、誘致の決定からおよそ3年後、2016年(平成28年)8月3日に行われた国際オリンピック委員会の総会でのことだった。