オウム真理教の教祖麻原彰晃が刑場の露と消えてから、すでに3年の歳月が過ぎた。
1989年の坂本弁護士一家殺害事件、1994年の松本サリン事件、その翌年の地下鉄サリン事件など、昭和から平成の初頭にかけて、日本社会を騒然とさせたのがオウム真理教だった。
私が、オウム真理教という存在を目にしたのは、今から32年ほど前の高校2年生の時だった。
「ショーコー、ショーコー、ショコショコ、ショーコー、アサハラショーコー」
このような歌詞の歌を流しながら、麻原彰晃をはじめ25人が1990年2月の衆院選に立候補した。オウム真理教というと選挙の時に流れていたあの奇妙な音色と歌詞が30年以上の年月が経っても、脳裏にこびりついている。
「真理党」なる党を立ち上げ、億単位の金をつぎ込み選挙戦に挑んだものの、結果は全員が落選。麻原の得票は僅か1783票という大惨敗だった。
麻原はこの選挙において、票が集まらなかったことを「自身やオウム真理教への世間の評価ではなく、国家による妨害」と捉え、独善的な傾向を強めていき、テロリズムへと走るきっかけとなった。
そんなオウム真理教の拠点として、日本中にその名を知られたのが現在山梨県富士河口湖町となっている、富士山の麓にある上九一色村だった。(全2回の1回目/#2を読む)
◆ ◆ ◆
4万8184平方メートルの土地に三十数棟の「サティアン」
オウム真理教が上九一色村の富士ヶ嶺地区に初めて土地を取得したのは、選挙の一年前の89年のことだった。
主に戦後から平成にいたる上九一色村の歴史が刻まれている『富士ヶ嶺酪農 50年史』によれば、95年までに4万8184平方メートルの土地を取得し、「サティアン」と呼ばれた教団施設三十数棟を建てた。そして、当時人口が1700人だった村に、多い時には800人の信者が暮らしていたという。松本サリン事件、95年の地下鉄サリン事件で使われたサリンはこの地の第7サティアンで製造された。同年5月に麻原彰晃が逮捕されたのも、第6サティアンの隠し部屋だった。
オウムは持ち主が村を離れた土地に目をつけ、相場よりも遥かに高い値段で買い上げていき、一大拠点を築いたのだった。
私は、その上九一色村が現在どのようになっているのか気にかかった。