「とつぜん得体の知れない車が通るようになったんです」
牛舎を訪ねてみると、入り口にある部屋に、ひとりの男性の姿があった。
「こんにちは」
そう声をかけると、ツナギの作業着に長靴を履いた男性が部屋から出てきてくれた。男性の名前は荒井茂さん。
当時も酪農を営んでいた荒井さんに、麻原の終の棲家となった第6サティアンができた時の印象を尋ねた。
「ここは、滅多に車なんて通らないですから、とつぜん得体の知れない車が通るようになったんです。それだけじゃなくて、信者もかなり歩くようになりました。もともと、サティアンへと通じる道は、私の家の前だったんですけど、あまりに車と人が通るもんだから自分の土地を提供して、役場に新しい道を作ってもらったんです。それが、今あなた方が通ってきた道なんです」
道を新たに造成するほど、オウムの信者の往来は激しかった。さらに建設工事も昼夜を問わずおこなわれたという。
「もう24時間ずっとですね。最初は、プレハブ小屋みたいだったんだけど、いつの間にかビルが建っていたんです。できると同時に、オウムのマントラがサティアンから聞こえてくるようになりました。とにかく当時は、ひっきりなしに信者が行き来していましたね」
「最初は『変な新興宗教だな』くらいにしか思っていませんでした」
――麻原が死刑になってから、信者が刑が執行された小菅刑務所のまわりを巡礼していたことも話題になっていました。こちらはどうだったんですか?
「オウムがいなくなって、数年は信者だった人の『両親だ』とかいう人がちょくちょく来ていましたが、最近ではほとんど訪ねてくる人はいないですね。ようやく元どおりの村になりました」
――第6サティアンだった土地の持ち主は、どなただったのかご存知ですか?
「はっきりとは言えないんですけど、元々はこの地域の人が持っていて、転売、転売で県外の人の手に渡って。それをオウムが入手したんです。ここは富士山も綺麗に見えますし、住宅街でもないですし、土地も広いですからね。彼らにはうってつけだったんでしょうね」
――それにしても住民の方にしてみれば迷惑な話ですよね?
「そうですね。最初、富士宮に総本部が出来た時、『変な団体が来たな』と思っていたら、いつの間にかここに土地を入手して、トラックで資材を運んできて、ビルまで建てた。それでもまさか、化学兵器や武器を作っているとは思いもしませんよね。最初は白装束を着ていた信者の人たちを見て、『変な新興宗教だな』くらいにしか思っていませんでした」