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「教団から『逃げたい』って若者はすぐ連れ戻され…」オウム真理教の拠点“旧上九一色村”で起きた「反対運動の結末」《現地ルポ》

「教団から『逃げたい』って若者はすぐ連れ戻され…」オウム真理教の拠点“旧上九一色村”で起きた「反対運動の結末」《現地ルポ》

上九一色村――オウムが棲んだ村#2

2021/12/19

genre : ニュース, 社会

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 オウム真理教の教祖麻原彰晃が刑場の露と消えてから、すでに3年の歳月が過ぎた。

 1989年の坂本弁護士一家殺害事件、1994年の松本サリン事件、その翌年の地下鉄サリン事件など、昭和から平成の初頭にかけて、日本社会を騒然とさせたのがオウム真理教だった。 そんなオウム真理教の拠点として、日本中にその名を知られたのが現在山梨県富士河口湖町となっている、富士山の麓にある上九一色村だった。

 村には「サティアン」と呼ばれた教団施設三十数棟が建ち、当時人口が1700人だった村に多い時には800人の信者が暮らしていたという。今もその地に住む酪農家の荒井茂さんに聞いた、かつての喧騒の記憶とは――?(全2回の2回目。#1から読む)

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上空から見た90年代の上九一色村の様子 ©️竹内精一

◆◆◆

「強制捜査がはじまる1年ぐらい前のことかな。3人はうちに逃げてきましたね」

 教祖である麻原彰晃の話を聞くと、荒井さんはこう振り返る。

「麻原は、三女のアーチャリーがまだ小さい時に、この道を散歩していましたよ。麻原のことは、彼らが第6サティアンを作ってすぐぐらいに、オウムの幹部だった早川(紀代秀)が、麻原の本とかを持ってきたことがあったんです。それとテレビに麻原が出たりしていたんで、顔は知っていました。彼はあんまり目が見えていなかったんでしょうね。娘とお付きの人たちがいて、手を引っ張ってもらっていましたね。特に会話をするわけじゃないですしね」

 麻原だけではなく、富士宮の総本部からはひっきりなしに信者が第6サティアンに向かって歩いていたというが、誰とも会話を交わすことはなかった。

 唯一の交流が、オウムでの修行が嫌になって第6サティアンから逃げてきた信者たちを家に匿ったことだったという。

村内で事故を起こしたトラックは、1994年の松本サリン事件でサリンをまいたという ©️竹内精一

「強制捜査がはじまる1年ぐらい前のことかな。3人はうちに逃げてきましたね。そのうちのひとりは、逃げて来たら、すぐに迎えが来ちゃって、連れ戻されちゃいました。ひとりは若い男の子で『逃げたいんだ』って言うもんだからね。ここから逃げるといったら、車を使うしかないでしょう。すぐに車で河口湖の駅まで送ってあげたんだ。だけどね、帰りに国道139号線でいかにもオウムの車っていうのとすれ違ったから、うまく逃げられたかどうかはわからないけどね…。

 電車も都心みたいに頻繁に来るわけじゃないし。あとひとりは私が留守の時で、嫁と子どもが家にいる時に若い女の人が逃げてきて、『すぐに警察に電話をして欲しい』というから、嫁が電話をしてあげたんだけど、すぐに追手が来て説得をはじめたんだよね。警察は来たんだけど、それまでに説得させられちゃって、警察も『本人が保護して欲しい』と言わないと保護できないそうで、結局連れ戻されちゃった。あの子たちはどうなっちゃったんだろうね」

 今回話を聞いていて、逃げてきた信者の話になった時だけは荒井さんは暗い表情を浮かべた。