開拓団の多くは、戦中に満州に入植した人たち
オウムの拠点となった、上九一色村の富士ヶ嶺地区は、戦後の開拓によって、今日の姿となった。それまでは、牧草地も畑もない雑木林が広がっていた。開拓団となったのは、戦中に満州に入植した人たちが多かったという。
私が次に話を聞いたのは、オウムが土地を入手後、いち早く反対運動を行い、村の開拓時代を知る竹内精一さんという93歳の男性だった。竹内さんは満蒙開拓青少年義勇軍として、戦時中には満州で過ごし、戦後はシベリアに抑留され、帰国後に開拓に関わった。
こたつが置かれた応接間で竹内さんと向かい合った。まず話を聞いたのは、竹内さんが経験した満州時代のことだった。
「もともとは軍人になりたかったんですけど、色盲だったんで厳しいだろうと思って、自分の意思で満蒙開拓青少年義勇軍に応募したんです。14歳の時でした。茨城県の内原で3ヶ月間訓練をして、北朝鮮の羅津に渡って、満州の二井訓練所に入りました。夏は農作業、冬は勉強と軍事訓練に明け暮れました」
「今までの人生で一番苦しかったのが、開拓の時代だったな」
――当時の資料を読むと、ホームシックになる屯墾病にかかったり、集団生活の兵舎ではいじめや暴力事件が多かったといったことが書かれていますが、実際はどうだったんですか?
「屯墾病はね、14歳の子どもが、日本とも景色が違うところに放り込まれたら仕方ないでしょう。半分ぐらいは、かかったんじゃないですか。日本の方向の東を見て、泣いているんですよ。暴力は手癖の悪いのがいて、モノを盗んだりしたら制裁があるぐらいで、そんなに殺伐とした雰囲気ではないんですよ」
竹中さんが満州に渡って2年が経った、昭和20年8月にはソ連軍が参戦した。
「ソ連軍参戦の情報をいち早く得ていた満鉄の関係者などは、ひと足先に逃げているんです。私たちは取り残されて、現地召集です。私は孫呉という最前線に送られました。幸いにも大きな戦闘に巻き込まれることもなく、終戦を迎えました。ただ、感じたのは戦争遂行のためには人命など気にしない戦争の狂気ですね」
4年間のシベリア抑留を経て、日本に帰国。竹内さんの父親が身を投じていた富士ヶ嶺の開拓に加わったのだった。
そもそも富士ヶ嶺地区の開拓は、戦時中に計画されていたのだが、本格的に動き出したのは戦後のことだった。近隣の鳴沢村から約30人が入植したのが、はじまりだった。その後、長野県出身の満州引揚者100戸を受け入れ本格的にスタートした。
開拓草創期の暮らしについて竹内さんは言う。
「満州の生活より何より、今までの人生で一番苦しかったのが、開拓の時代だったな。水がなかったのが苦しかったね。風呂も入れないし、まずやらなきゃいけないのが、水汲みだった。大げさに聞こえるかもしれないけど、沢まで何度も往復して、水を汲みに行って一日が終わる。家も粗末で笹小屋だったから、風はスースー吹き抜けていく。今からじゃ想像もできない生活だったんです」