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オウム真理教は、若者たちの心の隙間に入り込んだ

 開拓団の人々は、寒冷地でしかも満足な水もなかったことから、粟や麦、大根などの作物を収穫して、正にその日、その日を生き抜いた。

 電気が村に灯ったのは昭和32年のことで、地下水を利用した水道が整備されたのは、日本中が高度経済成長に浮かれ先の東京オリンピックが行われた昭和39年のことだった。

 昭和28年に村に嫁いだ女性が『富士ヶ嶺開拓五十年誌』に寄せた手記によると、バス停から2時間の道を歩いて辿りついた村は、電気も水道もなくランプの生活で、家には畳もなくムシロを敷いただけで、実家に帰りたいと何度も思ったという。

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 その後、開拓団の人々の努力により酪農により現金収入が得られる道が開けると、村の生活は経済的にも安定した。

麻原元死刑囚が暮らしていた第6サティアン ©️竹内精一

 そんな村に入り込んできたのが、オウム真理教だったのだ。

 上九一色村だけでなく、ひと足さきに経済的に豊かになっていた日本社会は、物質的な豊かさを享受しつつも一方で精神的に満たされない若者を多く生み出した。日本社会に居場所を見つけられず彷徨っていた麻原彰晃が立ち上げたオウム真理教は、若者たちの心の隙間に入り込んだ。

父親と同じような経歴を持つ人々が築いた富士ヶ嶺へ

 私は富士ヶ嶺地区を歩きながら、奇妙な符合に気がつき、はっとなった。

 今から10年以上前に訪ねた麻原の生家のあった場所も、戦後になって熊本県だけでなく、長野県などからも入植者たちが集まって形成された干拓地だった。

 1955年3月2日、麻原彰晃は本名松本智津夫として八代市金剛村で生まれた。八代市は干拓の町として有名で、金剛村も干拓によってできた村である。元々は干潟だった場所を埋め立て農地としたのだが、やはり昭和30年代は満足に農作物が取れず、入植者たちは厳しい生活を強いられた。

 海と山との違いはあるが、富士ヶ嶺も金剛村も地縁が無い人々が希望だけを胸に集まり、明日を夢見た土地であることにおいて濃密な共通点がある。

サリンなどの科学兵器を作っていた第7サティアンの内部にあったタンク ©️竹内精一

 金剛村で、麻原彰晃の一家のことを知る老婆は、麻原の一家は大陸からの引揚者だと言った。

「父親が満州から引き揚げてきて、炭坑夫をしていたおじさんのところで、世話になってね。ここに来る前はお父さんも炭坑夫をしていたみたいだよ。それからここで畳屋をやっていた」

 戦後の混乱期に満州から熊本の干拓地に入り、生活の基盤を築いた麻原彰晃の一家。彼は流れ流れて、彼の父親と同じような経歴を持つ人々が築いた富士ヶ嶺へと辿り着いた。

 彼がこの地にサティアンを築いたのは、単なる偶然なのだろうか。