文春オンライン

「入れ墨の写真を撮ってもいいか」36年間で約150人…“マル暴刑事”がヤクザの入れ墨を撮り続けた“意外な理由”

『マル暴 警視庁暴力団担当刑事』より #2

2021/12/26
note

 暴力、殺人、抗争、恐喝、闇金、地上げ、反グレ、けん銃、覚せい剤、エンコ飛ばし……。社会の裏面で蠢くヤクザたちと対決し、身を徹して表社会との防波堤となる存在が、暴力団犯罪を専門とする警察の捜査員たち。いわゆる「マル暴」だ。

 ここでは、そんなマル暴として40年にわたってヤクザ犯罪の捜査を続けた櫻井裕一氏の著書『マル暴 警視庁暴力団担当刑事』(小学館新書)の一部を抜粋。同氏が明かすマル暴としての覚悟を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

©iStock.com

◆◆◆

ADVERTISEMENT

人夫供給業から始まった「山口組」

 1915(大正4)年、兵庫県・神戸港の港湾労働者だった山口春吉が、同じ立場の労働者を数十人ばかり集めて、人夫供給業「山口組」を旗揚げした。 

 関東の博徒系ヤクザが、江戸時代にルーツを持つのに対し、山口組の歴史は、日本の近代化の中から始まる。山口春吉は人夫出しの傍ら、労働者たちに親しまれていた演芸の浪曲に目をつけ、港湾労働者を相手にした興行も手掛けたという。春吉の代で、山口組は神戸港に留まらず、兵庫の卸売市場の荷役業務も手を付けていたとされる。 

 春吉は25年に山口組を引退し、当時まだ23歳だった実子の山口登が二代目を継ぐ。登は春吉が先鞭をつけていた興行への進出を本格化させ、山口組のシノギは、港湾荷役と興行の二本柱となったという。だが、二代目・登は1940(昭和15)年、東京・浅草で、興行を巡る紛争で重傷を負い、2年後に死亡した。 

 山口組は三代目が不在のまま終戦を迎え、46年に、登の実弟と同級生だった田岡一雄が三代目を襲名した。先代が蒔いた種を花咲かせ、大木に成長させたのが田岡である。 

 三代目山口組は神戸港の港湾荷役や、船内整備、清掃など、「港」に関わる利権を拡大した。朝鮮特需による港湾業務の増加も山口組の追い風となっていた。また、労働争議の仲裁などを通じて影響力を増していった。 

 田岡は組員に「正業」を持たせることにこだわった。 

 その1つが興行である。三代目山口組を語る上で、芸能界への影響力は欠かせない。田岡は神戸芸能社を設立。昭和を代表する歌手の美空ひばりの後見人として、芸能界でその名を轟かせた。田岡は美空ひばりの地方興行などを通じて、日本の各地への侵攻のきっかけを作っていたとされる。 

 山口組は三代目の頃から東京進出の機会をうかがっていた。 

 63年、三代目山口組は、在日韓国・朝鮮人を中心とした東京の愚連隊「東声会」会長の町井久之と、田岡を兄、町井を弟とする結縁を行う。また、同じ頃には、山口組は稲川会の縄張りである神奈川県・横浜に支部を立ち上げるなどしていた。