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「入れ墨の写真を撮ってもいいか」36年間で約150人…“マル暴刑事”がヤクザの入れ墨を撮り続けた“意外な理由”

『マル暴 警視庁暴力団担当刑事』より #2

2021/12/26
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 三代目就任時、30名弱だった山口組の組員は、田岡が亡くなる80年頃には2万人近くに拡大していた。 

凄惨な抗争の歴史

 81年、田岡は病気で逝去する。カリスマだった田岡亡き後、山口組は跡目を巡り、凄惨な抗争に入る。 

 三代目山口組で実質ナンバー2の若頭で、四代目と目されていたのが、中核団体の山健組組長・山本健一であった。だが、田岡が死去した当時、服役中で、後を追うように82年に肝臓疾患で死亡。そこで「三代目代行」に山広組組長・山本広が、若頭に竹中組組長・竹中正久が就くことが決まった。 

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 ところが、兵庫県警による「山口組解体作戦本部」の攻勢を受け、山口組は山本広の四代目就任に動く。一方で、竹中がこれに反発し、田岡一雄の妻・文子夫人も竹中の四代目就任を後押しした。 

 竹中の四代目就任に反対する山広組を中心とした派閥は、84年6月の山口組定例会と同日、山口組を脱退し、「一和会」を結成、四代目山口組との「山一抗争」に入った。竹中は翌年1月、一和会のヒットマンにより射殺された。 

 山一抗争は一和会側に死者19人、負傷者49人、山口組側に死者10人、負傷者17人を出し、87年に終結。一和会は解散となった。 

 抗争の終結を経て、五代目に就任したのが山健組出身の渡辺芳則である。 

 五代目山口組は、関東のヤクザとの些細ないざこざを抗争に発展させ、山口組の狂暴性を関東に示してきた。その一つが、「八王子抗争」である。 

 1990(平成2)年に、山口組宅見組系の組員が、地元・八王子の博徒系組織二率会系の組員と揉め事を起こしたことが発端。宅見組系組員2人が殺害され、報復で二率会の幹部も射殺された。二率会は抗争後、解散した。 

 93年には、北海道・札幌でのいざこざを発端に、山口組と極東会の「山極抗争」が勃発。新宿や池袋などの繁華街でも銃撃事件が相次いだ。 

 そして2005年、六代目山口組組長に弘道会出身の司忍が就任した1か月後、国粋会が山口組に加入したのである。その昔、国粋会は暴力団社会の「地主」と言える存在だった。六本木や赤坂、銀座などの繁華街は元々、国粋会のシマ(縄張り)で、住吉会や稲川会は国粋会にショバ代(地代)を払い、シノギをしていた。 

 ところが、暴対法施行とバブル崩壊後の景気後退で、シノギが厳しくなり、国粋会の幹部の中に、山口組から借金をする者が出たようだ。カネを貸す山口組としては、返済の当てがなくとも、貸しを作ることで国粋会の人間を自分の言う通りにできるという思惑があったのだろう。 

 05年に国粋会が山口組入りする前に、そのことを巡ってちょっとしたトラブルになったことがあった。組対三課の刑事が住吉会の事務所にガサ入れした際、組員との世間話で、「国粋(会)の人間は、山口(組)からカネ借りて、もう頭が上がらねえみたいだな」としゃべってしまったのである。 

 これを聞いた住吉会の関係者は、さっそく国粋会の組員に「(組対)三課のデカがお前の組のこと、こう言ってたぞ」と空気を入れたようだ。聞かされた組員の怒りの矛先は当然、警察に向くことになる。