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「日本代表クラスじゃないと出せない」はずのタイムがなぜ…?

 この年の佐久長聖高校は、ファンの間で「レジェンドチーム」と呼ばれるほど、過去、類をみない高レベルで各選手の実力が拮抗していた。そのため藤井さんのような力のあるランナーを、他チームの層が薄くなる5区に配置することができたわけだ。

 それだけの条件がそろってもなお、不滅の記録にはあと一歩、届かなかったという。

「当日は区間賞よりも総合優勝を意識していたことはありますが、僕自身も調子は悪くなく、実力は発揮できたと思います。それでも区間記録には届かなかった。当時の僕の5000mの自己ベストは、いまから50年前という時代の記録水準であれば、日本代表レベルの記録です。つまり、浅井さんの記録は当時の代表クラスじゃないと出せなかったタイムのはずなんです。

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 たまたまあの年の佐久は高いレベルの選手が集まりましたけど、他チームの5区を走った選手では区間記録を目標にすることも考えられなかったと思います。当時、走る前の僕の設定タイムも8分30秒でした。僕が出す前の歴代2位のタイムが8分36秒だったので、そこを目標にはしていましたが…なかなかあの区間記録は現実的に目標にはできないのかなと思います」

現在の藤井さん。中学生を中心としたランニングクラブで指導しているという

 そうなると、なぜそれほどの力を持ったはずの選手が、最下位争いをするようなチームの、しかも最も実力が劣る選手が走るような区間を走ったのだろうか――? 

 謎は深まるばかりだ。

 実際に大会の公式ホームページによれば、レース後に浅井選手はこんなコメントを残しているという。

「ふだん(3kmを)9分40秒くらいで走るのですが…」

1972年大会のトピックスを伝える公式サイト。浅井さんは「ふだん9分40秒くらいで走るのですが……」と述べている

 実にその“普段の記録”を、登り基調のコースで「1分以上」更新したということになる。藤井さんは続ける。

「3kmの区間で練習と本番で記録を1分縮めるというのはほぼ不可能です。20秒とか30秒くらいなら、いろいろな条件が重なればあり得なくはないかもしれませんが、それでも相当なレアケースです。1分以上となると、あり得ないと言っていいと思います」