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ただの「モテ」ではなく「めちゃモテ」…2000年代半ばに起こった空前の“エビちゃん”ブーム、『CanCam』はなぜ“赤文字系雑誌”で一人勝ちできたのか

『JJとその時代 女のコは雑誌に何を夢見たのか』より #2

2022/01/09
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「万人にちょっとずつ愛されること」を目指す

 仏文学者であり、2011年までは関西のファッションを牽引する神戸女学院大で長く教鞭をとっていた内田樹は、当時の学生とのやりとりからこの「めちゃモテ」とはどんな状態かについて著書の中で分析する(*1)

*1 内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』文春文庫、2011年

 ただの「モテ」ではない。「めちゃモテ」である。「めちゃ」という副詞部分にこの雑誌のコンセプトの卓越したオリジナリティはある。『JJ』のファッション戦略が「本命男性ひとりにとことん愛されること」であるのに対して、『CanCam』のめざすところは「万人にちょっとずつ愛されること」である。

 だから、「めちゃモテ」のターゲットは必ずしも結婚対象の男性だけとは限らない。
 

 例えば、女子アナがみな『CanCam』系「めちゃモテ」ファッションでまとめているのは「子どもからお年寄りまで幅広く受け入れられるためではないか」〔…〕

 そもそもモテるとはいかなる事態かと考えれば、自分のターゲットであり自分も興味を寄せる相手であるかどうかにかかわらず、むしろ自分にとって興味が持てない相手からも興味を寄せられること、と言うことができる。俗な言い回しに、モテると愛されるは違う、モテ=幸福じゃない、といったものがあるが、それは案外モテという事態の本質を突いていて、不特定多数の目を引く、自分が恋愛対象にしていない相手からも好意を寄せられることを通常はモテると表現する。

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 CanCamの場合、そのただでさえ重みのないモテという言葉に、より一層軽薄な「めちゃ」という副詞をつけたことで、人生計画や経済戦略の重みからファッションを切り離した。ただし、それは男性目線からの切り離しを意味せず、むしろ全方向の男性受けが総じて良いものを選び取り、「万人にちょっとずつ愛されること」を目指した。「モテ」という究極の対外評価を前面に押し出すことで、自分への価値付けを男性に開け放してはいるものの、そこから結婚や経済的依存などの最終目的を分離した状態と言える。むしろファッションだけでなく、恋愛を結婚からある程度切り離し、私生活を彩り、楽しむための恋愛を重視する傾向が見える。「エビちゃんシアター」がラブストーリーとして展開し、主婦を目指す方向でも女性としてのキャリアを充実させる方向でもないところで盛り上がるのはその好例だろう。