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 対外評価を基盤にした言葉を使いながらも結婚という最終目的を離れたところで巻き起こる「めちゃモテ」は当然のことながら、自ずと女性たちの自分のテンションを上げるためのモテファッションの様相を帯びてくる。目的が外れた手段の方に熱い視線が集まるのだから、ひとまず目的は可愛いとか楽しいとかいう気分の高揚になるのは自然な流れである。それはアンノン派やJJ派と呼ばれたかつてのOLたちの、自分の着たいファッションvs結婚相手に選ばれるファッションという二項対立を超越し、みんなから愛されることで自分のテンションを上げるためのファッションという他人任せでも自己完結でもない複雑さを孕んでいた。

女性たちは自己目的的に『モテ=かわいくなること』を追求する

 日本のポストフェミニズム的流行現象としての「めちゃモテ」ブームを分析した高橋幸は、従来の家庭内分業的性別役割とは地続きのようでいて別個の、新しい性的差異が獲得され強化される運動としての側面に注目した(*2)。CanCamブームの中で起きたのが、「ケア役割と親和的な『伝統的』性別役割としての女らしさ志向というよりも、恋愛の場面を念頭に置いた『女らしさ』を強化するふるまいの流行」であったとした上で、「他人から好かれたり、ちやほやされたりする状態になりたいという欲望とそのための努力によって、既存の『女らしさ』が積極的に学習され、新しい『女らしさ』が引き受けられている」と考察する。

*2 高橋幸『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど』晃洋書房、2020年

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 そして「モテ」という評価主体を外部の男性に依存した言葉には、追求すればするほどステレオタイプ化してしまうことと、コントロール不可能な他者という存在との関係に投げ込まれることの二重のトラップがあるからこそ、「女性たちは、自己目的的に『モテ=かわいくなること』を追求するという態度を強める」と指摘する。

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 それは一方では社長夫人を目指せなくなった╱目指す必要がなくなった女性たちの、かつてのJJ的価値観の緩みのようにも見えるし、JJが提案し続けた男性視点によって付加される女らしさが、結婚神話なしで存続していくためのエクスキューズにも見える。JJのように将来を見据えた安定がなく、かといってギャル雑誌ほど刹那的な若さに頼ることもないそれは、それなりに経済的な自立が約束されながら、社長や社長夫人のリアリティは薄れた、非常に現実的な女性たちの気分だった。この、重い最終目標から自由になった、可愛くなる、恋愛を楽しむ、テンションが上がる、という軽やかな目的のための「モテ」はしかし、強烈に当時の女性たちを引きつけ、一時のCanCam一人勝ち状態を作り上げたのである。

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