ビッグバンドが奏でるジャズで踊るステージアクト中心の煌びやかなフロアーショーの世界はもうそこにはなく、怒りと寂しさは私を更にガンコにさせました。頑なにバーレスク(=チラリズム)をやってやろうじゃないの! 見せてあげないよ~だ。局部を見せちゃったら、せっかく作りあげたショーが全部たかが“局部”に持っていかれる。だから見えそうで見えないショーを極めました。お客さんが「もうちょっと、もうちょっと……」と顔を傾けていく。「ア~見えなかった~」って笑ってホステスさんと乾杯。なんて微笑ましい光景をもう一度見たかったから。
たまに大阪のキャバレーで踊るともう、抱きつきたくなるくらい嬉しくて愛おしくて、行くたびにキャバレーの緞帳をなでなで。「よくがんばっていてくれてありがとう!」と出番前に感謝したものでした。でも今思えば、この怒りがなかったら日本を飛び出すことはなかったと思います。
失われた“チラリズム”がアメリカにあった!
インタラクティブ・パフォーミングアーツをやりつつも、私はまったくのアナログ人間でした。マッキントッシュのコマンドキーを、“お花のマーク”と呼ぶくらいの機械音痴。そんな私もやっと90年代の終わり頃インターネットに興味を持つようになり、そこで見つけたのがすでにバーレスクをスタートして頭角を現していたディタ・ヴォン・ティースやLAのベルベット・ハンマーなどのバーレスク・グループ。私がやり続けてきたチラリズムに値するものが、“ネオバーレスク”という言葉でアメリカで見直され、ブームになり始めていることを知りました。どんなキーワードで検索したのかは覚えてないけれど、たぶん“匂い”で探し当てたような気がします。
当時、偶然にも名刺に“バーレスク”と入れていた私は、この同じタイミングで海外にバーレスクを見つけ、すぐに「これは絶対に私と繋がる」と確信しました。まったく根拠もなく、どこからくる自信なのかはわからなかったけれど。
今ではバーレスクが世界中に広まり、数えきれないほどダンサーが増えたけど、その頃はウェブサイトでさえ30件もありませんでした。ベルベット・ハンマーやルチャバブーンショーなどのサイトを見つけてはワクワクしながら、何気なく「出たいな、このイベント」って思っていました。海外へは1人で行ったこともなく、ましてやまったく英語も話せないのに、ステージで踊っている自分を想像していました。毎夜ショーの仕事から帰ると朝方まで、辞書とにらめっこしながらアメリカのバーレスク・サイトを読み進めました。私は1人じゃない。そして私にアメリカ行きのチャンスが巡ってきました。
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