常に欠点を指摘するタイプの厳しい母だった
――宮崎駿監督との文通といい、木村さんの人生の節目には“手紙”があるんですね。
木村 たしかに、言われてみればそうですね(笑)。頻繁には書かないですけど、ここぞという時には手紙をしたためているような気がします。この時は、その15家族の中からホストファミリーを選ばせてもらいました。
――アメリカでの生活は水が合ったのですか?
木村 はい、とても楽でしたね。みんな褒め上手なんです。私の母が厳しい人で、いつも欠点を指摘するタイプだったので、ギャップを感じました。ちょっといいことがあると褒めてくれる環境で以前よりのびのびと過ごせましたし、フレズノから近いヨセミテ国立公園で、大自然を満喫できたことも大きかった。
夏休みの間、2カ月くらいツインベッドが配備されたスタッフ用のテントで生活をしながらそこでバイトしていたんですけど、日本では体験できないような壮大な自然の中に身を置くと、流行を追うことや、お化粧したり着飾ったりすることが、ちまちましたことのように感じられました。人が持っているものの中で大自然の美しさに見劣りすることのないのは、目の輝きだけじゃないかという思いを抱くようになりました。こうした考えが芽生えたことも含めて、その後の私の人生に大きな影響を与えた留学でしたね。
大学も4年通ったけど卒業はしなかったんです。実は父の仕事でタイに数年間駐在していた両親が日本に帰ることになり、その時に私も帰国しました。また戻って単位を取ろうと考えていたんですけど、約1年後に母がガンで亡くなって、私も体調を崩して、戻れずじまいで。
帰国後に「もう発声が全然ダメな状態に」
――帰国後、一時は声楽家、ソプラノ歌手も目指されたこともあったそうですね。
木村 ピアノを専攻している時に、私は歌のほうが本当は好きなんじゃないかと気づいたんです。日本に帰国して歌も習い始めたんですけど、そこで体を壊しちゃって。腹式呼吸が全くできなくなるほど、急激に痩せて骨盤がずれてしまったような感じになり、もう発声が全然ダメな状態に。
筋肉が減ったことで内臓が下垂して、戻らなくなってしまったようなんですね。当時は無理なダイエットをしたり、通っていた演劇ゼミでのエクササイズが、幼少時の辛い体験を思い出しながら大声を出す……というものだったんですよ。小さな頃に母親に抱いていたネガティブな感情を解放しようとする際に、逆にそれに飲み込まれたというのもあったんじゃないでしょうか。あくまで、私自身の診立てですけれど。