照ノ富士をけんかのようなファイトで屈服させた
偉大な4人だけでなく、他の横綱、大関など数々の名力士には、咲いて散る桜のような引き際の美学があった。白鵬は場所後の横綱昇進を確実にしていた照ノ富士へのバトンタッチどころか、けんかのようなファイトで屈服させた。翌日には横綱審議委員会(横審)に「連日の張り手、ガッツポーズは見苦しい」との苦言を呈され、2日後には八角理事長(元横綱北勝海)から一連の行為に口頭で注意も受けた。引退時期や諸事情で結果的に最後の一番が白星で終わる横綱もいたが、いくら何でも15戦全勝優勝でラストを飾る横綱は初めてで、しかも物言い付きだ。前代未聞、異例中の異例といえる引退劇となった背景には何があったのか。
白鵬は孤高ではなく、孤独だった。誰よりも高い境地に立つ「孤高」は自らの強い意志と力が必要となるが、「孤独」は望まない形での一人ぼっちを連想させる。全盛期の頃、ある問題行動で北の湖理事長に呼び出されて厳重注意を受けた際、同席した師匠の宮城野親方(元幕内竹葉山)や部屋関係者は黙ったままだった。理事長は横綱に最も近い存在が助け船を出さない状況に「宮城野たちは何も言わなかったな……」と驚いたそうだ。
白鵬が引退会見で感極まった瞬間は一度ある。入る部屋がなかった自分を受け入れてくれた師匠への感謝を述べた時だ。「褒められたい一心で稽古に励んだ」とも言い、出世の階段を駆け上がった青春時代を懐かしむようにも映った。
白鵬に問われ続けた「横綱の品格」
横綱になってあらゆる歴代記録を塗り替えた際、「それでいいんだ」とねぎらってくれた元横綱大鵬の納谷幸喜氏や「このまま頑張っていけよ」と背中を押してくれた九重親方(元横綱千代の富士)もいなくなった。体調不十分なままの強行出場では横綱の責任を果たせないとの考えから、17年以降は年間2場所以上の休場を重ねた。その代わりに皆勤した場所では賜杯を抱くか、それに近い成績を残した自負があった。根底には八百長問題、野球賭博騒動の二大不祥事などで人気が低迷した時期の大相撲を一人横綱として支えた誇りも消えていなかった。しかし横審は20年11月場所後に引退勧告の次に位置する「注意」を決議。直近12場所で休場8場所は多すぎるとの判断で、残り4場所での優勝3度、準優勝1度という結果は封印された格好となった。元来は寂しがり屋の男にとって、追い込まれた感情の持って行き場がない状況はつらかったと察する。
力士晩年の白鵬は横綱の品格も問われた。二所ノ関親方は「品格論」を「明記されていないから難しい」とした上で「土俵態度は急に変わるものではないから、そこに成績や実力がついてきてやっと横綱になれる。品格はやってきたことを全うした、その先にあるのではないか」と持論を展開。一方で白鵬は引退直後のテレビ番組のインタビューで「横綱相撲」について「何歳になっても、優しくても、いい横綱でも、土俵の上で結果を出せなかったら引退だと。勝つことが横綱相撲だと私は思っている」と語り、「綱の品格」を問われると「鬼のような気持ちで勝ちにいって、土俵を下りれば優しさ。これが私にとっての品格なのかな」と答えた。