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「ああこれは私小説なのか」と思った次の瞬間に…書くこと/読むことをめぐる暴力性を問い直す

水上文が『ほんのこども』(町屋良平 著)を読む

2022/01/25
『ほんのこども』(町屋良平 著)講談社

 生きることにつきまとう罪悪感がある。存在しているだけで、既に暴力を振るっている気がする。

 もしそうであるなら、あなたは町屋良平『ほんのこども』をぜひとも読むべきだと私は思う。何かを読んだり書いたりすることを好む人ならなおさらである。あなたはおそらく、書くこと/読むことは常に搾取や消費に似ていて、誰かを都合よく切り取ることに他ならないのではないか、という疑いを持ったことがあるだろう。拭い去れない疑いの処理の仕方に悩んだ挙句、怠惰に困惑と付き合い続けていることだろう。安心してほしい。あなただけではない。『ほんのこども』は驚くほど執拗に、あの暴力の気配に対する困惑と付き合い続け、あらゆる角度から検討し続ける小説なのである。

 たとえばこの小説は、私小説と読み得る仕掛けが至るところに施されている。私たちは町屋良平という現実に生きる作家を思い浮かべ、彼の現実を覗き込んでいるような下世話な好奇心を引き出され、そして小説が追求する暴力の当事者として呼び出される。読み始め、“ああこれは私小説なのか”と思った次の瞬間、私たちはまさしく作家の人生をフィクションとして消費する加害者として立ち現れることになるのだ。

 そして小説では、「私」が「あべくん」なる人物の文体を奪って文章を書き連ねている、という推論のもと、あべくんに起きた出来事を追う私の姿が描かれる。あべくんの父は彼の母を殺害し、自らもあべくんを連れて逃走した結果捕まり、のちに自殺する。あべくんは父に殺されることなく生き延びたものの、のちには恋人を殺して自殺する。大人になったあべくんと再会した私は彼から送られてくる散文に影響を受け、商業作家として文章を書いて生きるようになる。あべくんの悲劇は私が書くための掛け替えのない財産となるのだ。もちろん私が行なっていることは殺人ではないし、物理的な暴力でも何でもない。

 けれどもそれはやはり、あべくんに対する暴力ではないか?

 小説はこうした問いをあらゆる仕方で検討する。混濁する人称は、自他境界の融解と暴力の避け難さと快楽を雄弁に表現するだろう。擬人化され語り出す「小説」は、小説という枠組みそれ自体を問い直すだろう。他人を書いてしまうことを巡る暴力の所在は、“決して語り得ない究極の悲劇の象徴”としてしばしば語られるホロコーストの暴力を呼び出すことで苛烈に問いただされるだろう。そのあまりの苛烈さは、この上ない不安を読者に抱かせる。こんな風に書かれてしまって/読んでしまっていいのか? 不安は解消されない。だからあなたにも読んでほしい。この不安をそのままに引き受けること、それこそが読むことに他ならないのだから。

まちやりょうへい/1983年、東京都生まれ。2016年「青が破れる」で文藝賞、19年「1R1分34秒」で芥川賞を受賞。他の著書に『しき』『愛が嫌い』『坂下あたると、しじょうの宇宙』『ふたりでちょうど200%』などがある。
 

みずかみあや/1992年生まれ。文筆家。「ユリイカ」「文藝」「文學界」等で執筆中。編著に『フェミニズム文学ガイド』(同人誌)。

ほんのこども

町屋 良平

講談社

2021年11月10日 発売

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