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母と暮らしたのは2歳まで、唯一のつながりは…児童養護施設で育った彼女の「生きるための支え」

長瀬海が『birth』(山家望 著)を読む

2022/02/01
『birth』(山家望 著)筑摩書房

 私が私である理由なんて誰にもわかるはずがない。だけど、未来はいつだって不確かなものだから、人間はその存在の根拠を求めて生き続ける。自分を〈いま・ここ〉に縛り付けるもの。世界との紐帯(ちゅうたい)があればこそ、私たちは自身の足で立てるのだ。第37回太宰治賞を受賞した表題作の主人公にとってそんな存在証明となるものは、母子手帳だった。

 20代前半の市ノ瀬ひかるは、児童養護施設で育った。母と暮らしたのは2歳まで。何かの事情で施設に預けられた彼女は、残された母子手帳を唯一の母とのつながりとして大切に持ち続けている。器用に生きられるタイプではないひかるにとって、母子手帳こそが生きるための支えなのだ。

 地域の新聞社の職を得たばかりの彼女はある日、公園で、1冊の母子手帳を拾う。そこには自分と同じ名前・生年月日の人物とその娘の記録が綴られていた。それがどれほど大切なものかよく知る彼女は、記載されている病院に届け、どうにか母娘を一目見ようと試みる。だが、ようやく見つけたその母親のとったある行動によって、ひかるは深い動揺を覚えるのだった。

 母子手帳だけを頼りに生きる彼女の存在はあまりに儚くて、弱い。作中、ひかるの心に去来する幼い自分と母の映像が度々、差し挟まれる。だが、それは記憶なのか妄想なのか、彼女自身にも判別がつかない。虚実が曖昧な想念に囚われてしまう彼女の生は、現実感覚が悲しいまでに希薄で、苦しいほどに孤独だ。そうした彼女の弱さを描いた物語を通じて作者が示しているのは、私たちの存在というものそれ自体の耐えられないほどの軽さである。厄災が続き、生きることを問い直さねばならない現代にあって、物語の終盤に彼女が発する「声にならない叫び声」は、ひかるだけでなく私たちにも一種の気付けとなるに違いない。

 存在の儚さを問うことは、併録の「彼女がなるべく遠くへ行けるように」にも通じる主題だ。幼いころ両親を亡くし、育ての親の祖父母にも去られた大学講師が主人公。下宿先の家主である親族まで失踪し、独りになった彼が思弁するのは、生きるという途方もなく深遠な問題についてである。

 夜な夜な現れる不思議な鼠の亡霊や、教え子が英語で書いた、抽象的だが優れた短編小説を通じて、彼は真理を導く。私たちが生きていたという事実を保証してくれるのは、現在/これから、この世に生きる人たちによる語りだ。「認識の容れ物」としての彼らが忘却してしまえば、個人の存在など簡単に消滅する。語られることの意味を、人間存在に対する思弁の深いところで探る本作は文学的な強度が極めて高い。

 つまり、両作とも無根拠に生きられない私たちの困難と真摯に対峙した物語である。2人の主人公の孤独が絵空事なんかに思えないのは、そのためだろう。

やまいえのぞみ/1987年、東京都生まれ。武蔵野美術大学卒業、東京藝術大学大学院修了。2021年、本書の表題作「birth」で第37回太宰治賞を受賞し小説家デビュー。
 

ながせかい/千葉県出身。インタビュアー、ライター、書評家、桜美林大学非常勤講師。「週刊金曜日」で書評委員を務める。

birth (単行本)

山家 望

筑摩書房

2021年12月1日 発売

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