伊藤健太郎の演技は、三吉彩花が演じたその「悪女の尊厳」の物語を献身的に支えていた。非現実的な映画の展開に対して、リアリティのある演技でリアクションを返す伊藤健太郎の芝居の力は、観客を映画のテーマにつなぎとめることに成功していたと思う。
ある意味では事件によって監督作が被害を被ったとも言える黒木瞳が伊藤健太郎を心配し連絡を取ったのは、そうした彼の芝居の貢献に対して監督としての思いがあったのかもしれない。
伊藤健太郎には現在、阪本順治監督による主演映画『冬薔薇』が控えている。阪本順治監督の映画で主演をつとめることは、人気俳優であっても願えば叶うとは限らない機会だ。阪本監督からの出演依頼を聞いた伊藤健太郎は信じられない思いだったと『デイリー新潮』のインタビューで語るが、それは彼のこれまでの演技に対する評価なのだろう。
「このあたり、報道だとなかなか伝わらないところなんですけど」
社会的なイメージも、CM契約もすべて失った。しかし芝居のつながりだけは、地獄に垂らされた蜘蛛の糸のようにまだ彼に残されている。それは才能があれば何をしても復帰できるということではない。彼が過ちを犯せば、たちまち芥川龍之介の小説のように切れてしまう細い糸にすぎない。その細いつながりだけを頼りに、伊藤健太郎はもう一度這いあがろうとしている。
『週刊文春CINEMA!』で対談した井口昇監督が「健太郎さんの特徴は、すっと人に合わせる、自然体で相手を受け入れることができるところだと思う。映画の現場には様々なスタッフさんがいるし、上下関係もあるんですけど、健太郎さんはまんべんなく仲良くしている。それはけっこうすごいことで、だから現場の好感度はひじょうに高いんですね。スタッフもキャストもみんな健太郎さんが好きになる。このあたり、報道だとなかなか伝わらないところなんですけど」と彼について語るのは、伝聞報道での人格批判への反論でもあるのだろう。
「もう運転をするつもりはない、車も処分した」と伊藤健太郎は『週刊新潮』のインタビューで語る。芥川龍之介の書いた小説と違うところが彼にあるとすれば、地獄に垂らされた糸が1本だけではないということだろう。井口昇監督、工藤遥、黒木瞳監督、そして阪本順治監督、彼の繊細な芝居が知らぬ間に紡いできた何本もの透き通る細い糸は、蜘蛛の巣のように八方に広がり、彼の復帰を支えるネットになっている。
2022/1/28 19:50……読者の指摘により以下の記述を修正しました。
4P目「坂道ペダル」→「弱虫ペダル」