「内藤家にはここから車で行けないですから。前の道をまっすぐ行って、突き当りを左に曲がって坂をのぼってください。それから右に曲がって、もういちど右に曲がった先です」
2022年1月18日、奇しくも自分の誕生日。ここは十和田湖から南に8キロの場所にある秋田県鹿角(かづの)市十和田毛馬内(けまない)。私は市の先人顕彰館で聞いた道順を頭の中で反芻しながら、粉雪に埋もれた坂を登っていた。
気温、マイナス4度。あらゆる樹木や建物が雪に覆われ、民家の板壁に貼られた秋田魁新報のブリキの看板が半分まで隠れている。道路にも慢性的な積雪があり、タイヤの轍(わだち)の部分すらアスファルトの色が見えない。来る前にワー●マンで買った2900円の防寒パンツと1900円のスノーブーツ、980円のインナーウェアが大活躍だ。ワーク●ンはすごい。
雪だるまと化した胸像
顕彰館の前の道の右側は、地域の漢学者である泉沢家の屋敷があった場所だ。1821年、相馬大作(下斗米秀之進)という武士が、盛岡藩(南部藩)の恥をそそぐため隣藩の津軽寧親の暗殺を企てて潜伏した地としても知られ、道路を挟んだ並木の下に記念碑がある。
そこを進んで左に曲がる。体感では傾斜15度ほどの坂があり、いざ登ってみると思ったより長かった。真っ白になった坂の景色は、おそらく“あの人”の時代とそう変わらないだろう。両脇は杉林で、道は狭く大人2人がすれ違えるほどの幅しかない。維新前までは、この丘の上に柏崎新城という出城があった。
私が目指す邸宅・蒼龍窟は、柏崎新城の本丸跡の手前だ。もっとも、邸宅前に設置された胸像は、積雪によりただの雪だるまと化しており、台座の「……藤湖南先生像」という文字が読み取れるだけである。雪が深すぎて、スノーブーツのなかに寒気と湿気がじわじわと流れ込む。昔の藁靴ならもっと冷たかったはずだ。
往年、江戸や京都の人は、ちゃんと1年が12ヶ月間あった。しかし、奥州の冬はすべてが雪に閉ざされ、人々は毎年の4分の1は逼塞を余儀なくされた。それこそ、家で漢文を読むくらいしか、やることがなかったかもしれない──。
内藤虎次郎。号して内藤湖南(1866~1934)。戦前のオピニオンリーダーにして、日本の中国研究の祖として知られる人物は、そんな環境で生まれ育った。
「神様」の生い立ちを追いかける
大政奉還の前年の夏、内藤湖南は毛馬内の漢学者の武士の家に生まれた。4~5歳から漢文に親しみ、8歳で論語を読み終え孟子に進んだという。22歳で秋田を離れて上京し、新聞・雑誌の編集者や著名人のゴーストライターとして働くなかで頭角をあらわした。30代になると大阪朝日新聞ほか有力紙の主筆や論説記者として名を馳せた。