時事を論じるなかで中国問題に傾倒した湖南は、漢文を使った筆談によって中国の知識人とほぼ自在に会話できたことで、いつしか当代随一の「支那通」と称される。やがて40代で京都帝国大学より招聘されて東洋史を講じ、京都学派の中心人物の一人としてシナ学の「学祖」となった。書にすぐれ、中国美術品の目利きとしても知られた──。
かいつまんで書けば、湖南はそんな人物である。彼のファンは現在まで多く、2013年に主著『支那論』が文春学藝ライブラリーから與那覇潤氏の解説で再刊されたほか、ちょっと大きな本屋なら『中国近世史』(岩波文庫)、『先哲の学問』(ちくま学芸文庫)なども容易に手に入る。88年前に世を去った人物としては奇跡的な、書物の寿命の長さだ。
東洋史学者としての湖南は、東京では「過去の研究者」の一人にすぎない。だが、関西圏では独特のインパクトがある。「神様」とまでは言い過ぎでも、ある学問の世界を構築した偉人だという認識は、一昔前まで広く存在した。なかでも私(=安田)の母校の立命館大学では、湖南に師事した三田村泰助が教鞭を執っていた関係もあり、彼の名には重みがある。
私はこの冬、湖南がらみで大きな仕事の末席に加えてもらうことになった。だが、「神様」相手の仕事はおそれ多い。せめて、著書や資料を読み込みがてら、彼が生まれ育った場所くらいは見ておかないと礼を失する。そこで、寒さがいちばん厳しい時期の毛馬内を訪ねて、彼のライフヒストリーをたどることにしたのである。
他の県民から「南部めぇ!」
毛馬内はもともと、アイヌ語で「漁具の谷」や「湿地」を意味したらしい。江戸時代には南部氏の盛岡藩領に属し、家老の桜庭氏が柏崎新城を中心に治めていた(桜庭氏は藩政の重鎮なので、柏崎新城にはあまりいなかったようだ)。
湖南が生まれた内藤家は桜庭氏に仕える武士で、俸禄はわずか17石だが家格は高かったという。だが、湖南2歳のときに戊辰戦争が奥州に波及し、奥羽列藩同盟を離反して官軍についた秋田藩(久保田藩)と、同盟側の盛岡藩が衝突する。毛馬内は秋田戦争の前線基地になり、父の内藤十湾も従軍したが盛岡軍は敗北。「賊藩」の陪臣になったことで内藤家はひどく困窮した。
維新後、毛馬内を含む鹿角郡は、1871年(明治4年)に秋田県に編入される。幕末明治の鹿角郡は鉱山が多く、官軍側についた秋田への事実上の恩賞として、旧南部領から引き剥がされる形になったらしい。
「お爺さんお婆さんが子どものときまでは、毛馬内の子どもが大館(秋田県大館市。秋田藩の主要都市で戊辰戦争の被害が大きかった)に行くと、『南部めぇ!』と罵られて石を投げられたそうです。もちろん、現在はそんなことはないのですけど……」
毛馬内で出会った、私よりやや年上くらいの女性はそう話す。鹿角郡は秋田県内で唯一の「朝敵」の土地となり、県内の他の地方、特に北秋地域では「南部の火つけ」とさげすまれる時期が続いた。鹿角郡の人々の側も、ごく近年まで秋田県への帰属意識が薄く、自分たちを「南部人」だと考える人が多かった。
これは内藤湖南も同様だったようだ。毛馬内の先人顕彰館には、彼が明治の半ばになっても「陸中国」と宛先を書いた手紙が残っている(「秋田県」と書きたくなかったのだろうか)。後年、京都で暮らす湖南に気を利かせた人が、秋田名物のハタハタやしょっつるを送ってもあまり喜ばず、むしろ毛馬内名物の麦せんべいを好んでいたそうである。