湖南の中国(満洲)視察は、貴重な古文献を発見するなど非常に多くの学問的業績を残した。だが、いっぽうで外務省の嘱託としての行動もあり、スパイ的な要素がゼロとは言えない(あらゆる意味でインディ・ジョーンズさながらだったとは言える)。また湖南は政治好きで、過去に本人が立候補を考えたこともあれば、原敬や犬養毅をはじめ政治家との交友も深かった。
後年、湖南は中国美術品の目利きとしても知られたが、これは辛亥革命以降に中国から放出された名品を関西財界に流すブローカーとしての仕事とも表裏一体だった。湖南の古書画鑑定にかなり胡散臭いものが混じっていたことは、彼に好意的な青江舜二郎の評伝『竜の星座』(中公文庫)すら言及している。
「支那通」には怪しさが必要だった
内藤湖南には多くの顔があり、それぞれの分野で第一人者だった。しかし、東洋史の世界では紛うかたなき「神様」だとしても、どうやら他の顔をしているときの彼は、意外と怪しげで俗っぽいところもあったようなのだ。
とはいえ、真面目一辺倒の学者や理想論を振りかざす政治活動家よりも、豊かな教養を持ちながらも「食えない」人物のほうが、おそらく中国の要人たちは仲間意識を持って付き合いやすかっただろう(彼ら自身もそうだからだ)。湖南はかえって信用されたのではないかとも思える。
中国人以上に豊富な文化的素養を持つ一流の文人でありながら、積極的に時局を論じ、ともすればスパイ的な立場に立つことすらあり、心の底では政治に色気も持っていて、ちゃっかりお金も儲けている──。このキレのよさと若干の胡散臭さにぴったりくる言葉は、「神様」などではなく「支那通」にほかならない。やはり、内藤湖南は史上最強の支那通だったのである。
湖南の中国論の特色は、彼と同時代の中国(と言っても20世紀初頭だが)と、歴史時代の中国や伝統的な中国文化を結びつけて理解していた点だった。なかでも、中国社会は貴族の世だった唐代までと、皇帝の専制体制のもとで「平民」が勃興した宋代以降で大きく変質したとする「唐宋変革論」は、令和の現代にいたるまで東洋史学界で広く受け入れられている。
宋代にはじまる中国の近世社会は、湖南が生きた清朝末期まで大枠では連続していた。私(=安田)の感じるところ、そうした中国の社会のありかたは、やや形を変えながらも現代まで続く部分があるように思える。たとえば、中国共産党体制は往年の皇帝の専制体制の変形であると考えるなら、中国の現体制がそれなりに上手く維持されている理由についても、割と説得力を持って説明できてしまう。
近年の習近平政権が主張する現体制の肯定論「中国式民主」は、西側社会から失笑されているが、すくなくとも中国人からはそこそこ納得されている。これは、輿論をある程度は汲み取りつつ専制体制を運営するという、中国の過去1000年間の統治の経験を、習体制がたくみに応用しているためではないか。中国のありかたに好感を持てるかはさておき、現実はありのままに見なくてはいけない。
最強の支那通・内藤湖南が見た世界は、まだまだ参考にできるところがあるはずだ。
撮影=安田峰俊
<参考文献>
與那覇潤「解説 革命と背信のあいだ──『同病相憐れむアジア主義』の預言書」(内藤湖南『支那論』文春学藝ライブラリー、所収)
徳永洋介「解説」(内藤湖南『中国近世史』岩波文庫、所収)
小川環樹「内藤湖南の学問とその生涯」『日本の名著 41 内藤湖南』(中央公論社)
青江舜二郎『竜の星座 内藤湖南のアジア的生涯』(中公文庫)
高木智見『内藤湖南 近代人文学の原点』(筑摩書房)
礪波護『京洛の学風』(中央公論新社)
岡本隆司『近代日本の中国観 石橋湛山・内藤湖南から谷川道雄まで』(講談社選書メチエ)
小松浩平「内藤湖南における東アジア観の再検討 先行研究の整理を中心に」(『教育論叢』55号)
野嶋剛「シノロジスト・内藤湖南の原点~故郷・毛馬内の漢学教育」(『立命館国際研究』27巻4号)
野嶋剛「内藤湖南をめぐる中国美術品流入のネットワーク」『湖南』33号
毛馬内町割り四〇〇年祭実行委員会『毛馬内 毛馬内町割り四〇〇年物語り』