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 湖南は時事問題への関心が強かったが、孫文の革命運動や五四運動には冷淡だったとされる。後年の支那通たちが中国革命の支援に感情的に入れ込んだ(結果、期待が裏切られたことで反中感情をつのらせた)のとは好対照だが、急進的な革命に対する湖南の冷めた目は、彼が明治維新の敗者の立場だったことも関係していたかもしれない。

盛岡駅発のローカル線「花輪線」の車窓。鹿角市は現在でも、岩手県の盛岡市とは電車や高速バスが直通しているのに、県庁所在地の秋田市へのアクセスはかなり悪い。

「賊藩」が生んだ学問

 毛馬内を含む鹿角郡一帯の漢学は、文献の考証を重視する「折衷学派」に属する鹿角学で知られた。江戸時代までは、内藤湖南の祖父・天爵や父の十湾らの内藤家と、湖南の母方の泉沢家が鹿角学の2本の柱であり、この学風は後年の湖南の研究姿勢にも影響を与えたとみられている。

 やや余談ながら、京大東洋史学の「学祖」として湖南と並び称される学者に、桑原隲蔵(くわばら・じつぞう:1871~1931)がいる。後世の知名度は湖南のほうが高いが、実際は京大文学部の東洋史学派の本流は桑原から宮崎市定(1901~1995)に受け継がれたとされる(湖南が中国哲学の狩野直喜らと生み出したシナ学派は、京大人文研東方部や東北大学文学部のルーツになった)。

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毛馬内の蒼龍窟の門に現在でも掲げられている表札。この文字面だけでびびる。

 この桑原隲蔵や、湖南のライバルで東大東洋史の雄だった歴史学者・白鳥庫吉(1865~1942)が師事したのが、著書『支那通史』で知られる那珂通世(なか・みちよ:1851~1908)だ。日本最初の東洋史学者と呼ばれる人物である。

 実はこの那珂通世は盛岡藩士の息子で、藩校の作人館で学んだ漢学者の出だった。彼の養父の那珂通高(江帾五郎)は作人館の教授で、幕末の盛岡藩で活躍した主要人物の1人。那珂家は那珂通高の代から、湖南の父の十湾と家族ぐるみの交流があった。

内藤湖南と那珂通世の関係。ちなみに那珂通世の養父は吉田松陰の友人で、東北にやってきた松陰は毛馬内ゆかりの人物・相馬大作(本記事冒頭参照)を激賞。やがて内藤十湾は、松陰の通称「寅次郎」にあやかり、息子に「虎次郎」と名付ける。鹿角市先人顕彰館内で撮影。

 那珂通世にせよ湖南にせよ、盛岡藩に連なる漢学者の子弟が維新後に大学人になった理由は、「賊藩」出身者が中央で活躍しづらかったことも関係しているだろう。那珂通高は死の間際まで、養子の那珂通世に朝敵の汚名をそそぐことを望んでいた。こうした事情は内藤十湾・湖南の父子も変わらなかったはずだ。

 日本の東洋史学は、時代に敗れた南部人のルサンチマンから生まれた学問なのである。

インディ・ジョーンズさながらの人物

 私は毛馬内を歩きながら、内藤湖南の『中国近世史』(岩波文庫)を読み返した。約100年前の講義録とは思えない水準にはあらためて舌を巻く。だが、他の資料にも目を通すと、彼の別の個性も見えてくる。

 たとえば、若き日の湖南は仏教系新聞に勤務していた当時、キリスト教の排撃と日本仏教による世界救済を唱える過激な文章をかなり多く書いている(なお、湖南は晩年になって「わしは儒家で仏家ではないから火葬はいかん」「戒名もいらん」と発言しており、筋金入りの仏教徒ではなかったようだ)。

柏崎新城の丘を下った場所にある菅野食堂の、昔懐かしい感じのラーメン。店名と電話番号が書かれた器が渋い。冬の日にはありがたい味。

 30代のジャーナリスト時代には、進歩派の新聞『万朝報』で幸徳秋水らと机を並べて勤務し、日露戦争の非戦論を書いていた。ところが数年後、『大阪朝日新聞』に移籍してからは(2回の中国視察を経験し、時勢も変わっていたとはいえ)韓国と満洲への経済進出と日露開戦論を主張している。