日本での差別について
アーティスト本人と社会的スティグマとの関係性がよく見えないにもかかわらず、Nワードと「ジャップ」が使われるこれらの事例は、日本のヒップホップで差別用語を使うこと自体が「社会的文脈」よりも「ヒップホップの文脈」で行われている可能性を示しているのではないでしょうか。アーティスト本人たちから反発されるかもしれませんが、できればその反発からもう一歩踏み出してもらって、その差別用語と社会的スティグマと彼ら自身の関係を、より詳しく聞きたいのです。単純に「それがヒップホップだから」使ったのでなければ、その言葉とどのような関係を結んでいるかを述べてほしいです。聴き手はそこから日本での差別について考えることになるでしょう。
「大衆音楽での差別用語の使用は、言葉の「意味の取り戻し」の側面を持つのか」
残念ながら日本のヒップホップの場合、答えは否です。「外人」も「チョン」も、ある特定のアーティストによる使用はたしかに確認されますが、ガリンスキーらが提示した意味の取り戻しの第二段階である「集団的使用」は、確認されていません。今回の議論では扱えなかった「Bitch/ビッチ」まで範囲を広げると有意義な規模の集団的使用が見えてくるかもしれませんが、内集団の構成員同士で「外人」「チョン」「ビッチ」とお互いを呼ぶようなことは、今回の研究では見つかりませんでした。
音楽以前に、そもそも日本で「言葉の意味の取り戻し」の事例がないのは、なぜでしょうか。怖いから、かもしれません。差別を受ける人が堂々と自分のアイデンティティを誇ることすら難しい中で、自分を苦しめる言葉を人前で自ら使うということは、もしかしたら今の日本の環境の中では不可能に近いのかもしれません。ガリンスキーらも指摘したように、意味の取り戻しには「堂々たる態度での自らの使用」が必要ですが、その結果笑われたり、もっといじめられるかもしれないのに「勇気を出せ」と言うのは、無責任かもしれません。
「ならMomentがやればいいやん」と言われるかもしれません。まあ、ここまで「チョン」を歌詞に使っていますしね。たしかに、私は人前で「チョン」を使うことは怖くありません。むしろその言葉を発することによる「力の逆転」を意図することで、また議論が始まることを愛しているのです。しかし、「「チョン」って、いわばNワードみたいなもんなんですよね」などと聞かれた時は、私は決して他の韓国・朝鮮系の人を「チョン」とは呼ばないと答えて線を引いてきました。
なぜ私は他人にはその言葉を使わないのか。集団的使用、つまり内集団の構成員同士の使用が成立するためには、私がその内集団の一部であることから始めなければなりません。ここで、私の日本での11年間、ずっと答えられなかった質問が浮かび上がってきます。同じように「チョン」という言葉が向けられる、「在日」と私の間の距離感・罪悪感・優越感・劣等感……私は、「在日」なんでしょうか。
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