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「この人、『おしん』よりもかわいそうなの?」現実の“貧しさ”を認めたがらない人たち

2022/01/31

genre : ニュース, 社会

 想像力とは知識である、とかねてより思っている。知識がないと、想像することができない。だから想像力を養うのなら、まずはいろいろなことを知ることからはじめなくてはならない。

 貧困家庭の抱えている複雑な問題、機能不全家族や虐待などの問題について取材したり自分の経験を執筆したりすると、必ず「作り話」や「創作」だと決めつけて、問題に向き合おうとせず「そんな人がいるわけない」と、困窮者の存在をなかったことにしようとする人々が一定数いる。

「いつでも逃げられたはず」といった典型的な自己責任論

 せっかく実情を広く周知して問題意識を共有し、課題の解決に向けて活動を続けていても、そうした人々の「無自覚な無知」が、困窮者や被害者の声をかき消してしまう。実在する社会的格差や就労問題、男女格差や家庭内暴力など、社会や組織で権威勾配の下の方に属する人たちを「見たくないもの」と無意識に、または悪意を持って無視をし、考えることをやめ、最終的には「自己責任」と排除すること。それは至って簡単なことだから、これまで自己責任論が世の中を跋扈していた。

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 例えば、私は貧困家庭出身で、家庭内で母親と兄から暴力を受けながら育った。毎日、いつ殴られるかわからない生活を15年以上も続け、重度のトラウマによる障害を発症させつつも就職して実家から逃げ出した。「普通の人」と同じ生活を送ることができないので、今も治療を続けながら生きている。そんな私に向けられたのは「大人になったのなら自己責任」「いつでも逃げられたはず」といった典型的な自己責任論や、「そんな家庭があるわけがない、周りでも聞いたことがない」というような、無知による“存在否定”だった。

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 しかしここ数年は、そうした社会の醜悪な構造そのものが、いよいよメッキが剥がれ落ちて露出しつつあるように思える。

 彼ら彼女らは、テレビのニュースで流れる悲惨な虐待事件には本気で怒り、悲しみ、涙を流したりする。かと思えば駅の構内や路上でぐったりと寝転んでいるホームレスを避けて歩き、子ども食堂で食事にありつく少年少女のドキュメンタリーを観て、心を痛めたりもする。

 だから、もちろん彼ら彼女らは「虐待」の存在も、「貧困」の存在も知っている。なのに、それが“現実味”を帯び始めると途端に、嘘くさく、理解できないものに思えてしまうのだろう。