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「女の子が来るって待っていた皆さんはフリーズして…」漫画家・水野英子が語る、男だらけのトキワ荘に初めて足を踏み入れた日

『少女漫画家「家」の履歴書』より#1

source : 文春新書

genre : エンタメ, ライフスタイル, 読書, 歴史

note

手塚作品に衝撃を受けた小学生時代。漫画家に自分もなると決心した

 映画といえば、マイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガーの『ホフマン物語』(1952年)も素晴らしかった。バレエと音楽、あの色調の素晴らしさ! 同名の漫画(1976年)も描きましたが、あの衝撃は計り知れません。それとラジオ番組『音楽の泉』も好きでしたね。30分番組で小曲中心ですが、その後もクラシック趣味が続くきっかけになりました。

 1946年、市立桜山小学校へ入学。文学少女だった3年生の頃、手塚治虫漫画に強い衝撃を受ける。

 2年生の時、近くで祖母の姉が営んでいた食品雑貨店の2階にある3部屋へ引っ越しました。向かいに貸本屋さんがあり、放課後は10円札を握って名作全集などを借りに走る。そこで手塚漫画に触れました。まず『新寳島(たからじま)』のターザンに痺れ、次に『漫画大學』に魅せられましたね。分厚い本を手に取ってページを繰(く)ると、漫画の入門書の体裁ですがSF、ミステリ、西部劇の中編漫画あり、4コマありの贅沢さに陶然! 3年生(9歳)で漫画を描くしかないと決心した(笑)。

 当時、子供に漫画の画材なんて見当もつかない。そんな私に道具を揃えてくれたのが叔父です。彼は学校で美術部にいたので、ペンや製図用具を持っていた。本を読んで長い間、謎だった画材がホワイト。白のポスターカラーと知らず、夜空の星を描く時は墨一色へ白抜きにして必死で描きましたよ(笑)。

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 毎日、3畳間にある小さな洋机に向かってね。ペンを使いこなせるようになるまでには2年かかりました。とにかくデビューするまで『漫画大學』だけを頼りに独学でやるしかなかったんです。

水野英子さん ©️文藝春秋

15歳でデビュー、下関市の工場勤めと兼業で

 水野さんは市立文洋中学校入学時に母と死別。直後に雑誌投稿を始め、15歳にして、「少女クラブ」でデビュー。下関市の工場勤めと兼業だった。

『ジャングル大帝』が載っている「漫画少年」に作品募集がありまして、4コマや短編の投稿を始めました。雑誌は石森章太郎さんをはじめとする、全国の漫画少年たちがしのぎを削る場所でした。小倉に住んでいた松本零士さんは私の投稿仲間で、時々行き来していましたよ。

 デビューのきっかけは佳作に選ばれた「赤っ毛小馬(ポニー)」です。手塚先生が気に入って、ご自宅へ原稿を持ち帰って下さった。先生は亡くなるまで原稿を保存なさってて。それを目にした「少女クラブ」編集者の丸山昭さんが連絡してきてくれたんです。

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