漫画家の家と聞いて、まず思い浮かべるのは、手塚治虫や赤塚不二夫らが若き日を過ごした伝説のアパート「トキワ荘」でしょうか。私たちの心をつかんで離さない作品の背景には必ず、漫画家が仲間やアシスタント、 そして編集者ら、気の置けない仲間たちとつどい、切磋琢磨した特別な空間があります。
ここでは、少女漫画の黄金期である1970年代までにデビューした12名の漫画家の記事を編んだ『少女漫画家「家」の履歴書』(文藝春秋)より、漫画家・水野英子さんがこれまで暮らしてきた家の思い出を紹介します。(全2回の1回目/後編を読む)
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トキワ荘で暮らした7カ月
トキワ荘時代、赤塚不二夫さんが、夜道を私と歩いていた時「月がきれいだね」とささやいたら、「ブッ飛ばすぞ」って怒鳴られたって逸話を残しています。だけど信用しちゃダメ。話を面白おかしくオーバーに語ってるんです。当時、私は18歳の田舎出の少女、彼はちょっとエッチなお兄さまだったんだから(笑)。
でも、トキワ荘で暮らした7カ月は大切な私の宝物です。
手塚治虫をはじめ、赤塚、石森(後に石ノ森)章太郎、藤子不二雄などの絢爛(けんらん)たる漫画人が集った伝説のアパート・トキワ荘。その住人の紅一点にして、『白いトロイカ』等で少女漫画の表現のみならず、現在ある女性漫画家の道を切り拓いた水野英子さん。水野さんは1939年、山口県下関市上新地町で生まれた。
母方の祖母と叔父に育てられた幼少期
生家は山陽本線の傍にあり、3間くらいの貧しい借家住まいです。父母は満州で出会って結婚。満州の高官だったという父は妊娠した母を帰国させ、敗戦の混乱で行方不明になったまま。風の便りで生きて帰ったとも聞きますが、父のことはほとんど知りません。
戦中戦後と物資不足でしたので、母は買い出しや仕事で留守がちで、私は母方の祖母と叔父に育てられました。叔父は12歳上で、私にとって「お兄ちゃん」。15歳から鉄道員として働き、ずっと家計を支えてくれてました。幼い頃は痩せっぽちで外で遊ぶより童謡を聴いて、その情景を描いたりしていました。「七つの子」ならカラスや山を想像で描くのが楽しかったんです。
母は読書と映画が好きで、出先で本を買って帰ってきたり、映画に連れて行ってくれたりしました。叔父も映画好きで、西部劇、ターザン映画など必ずつれて行ってくれました。特に好きだったのは西部劇で、『シェーン』(1953年)を10回は観たなあ。