漫画家の家と聞いて、まず思い浮かべるのは、手塚治虫や赤塚不二夫らが若き日を過ごした伝説のアパート「トキワ荘」でしょうか。私たちの心をつかんで離さない作品の背景には必ず、漫画家が仲間やアシスタント、そして編集者ら、気の置けない仲間たちとつどい、切磋琢磨した特別な空間があります。
ここでは、少女漫画の黄金期である1970年代までにデビューした12名の漫画家の記事を編んだ『少女漫画家「家」の履歴書』(文藝春秋)より、漫画家・水野英子さんがこれまで暮らしてきた家の思い出を紹介します。(全2回の2回目/前編を読む)
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トキワ荘での赤塚さん、石森さんとの思い出
4畳半の部屋には一間幅の窓があり、すごく気持ちが良かった。連載と合作を並行して、1日中描いてましたね。休憩は近所の喫茶店エデンです。欧風でクーラーがあるのが良かった。打ち合わせと称して、赤塚さん、石森さんと映画の話ばっかりしてね。
食事は赤塚さんのお母様が用意して下さって、私は2階の炊事場へお手伝いに行ってました。準備が出来たら、赤塚さんが壁を叩いて隣の石森さんを呼ぶんです。すると「うォーい」と返事が聞こえてくる。
赤塚さんは美青年で、作業中にライトを私の方へ向けてくれたりと細やか。お母様が線の細い赤塚さんを心配して、私をお嫁さんにと思ってたのは本当なんですよ。いっぽう、石森さんは無骨だけど映画や音楽に通じてる博識のお兄さま。大きなステレオをお持ちで、仕事中、彼の部屋からジャズからポップス、クラシックが聞こえてました。
ある日、仲間が部屋を真っ暗にしてヒソヒソ何か観てる。私が戸を開けようとしたら、「女はダメ!」って。ブルーフィルムだったんです。そんな時だけ女の子扱いするんですよ(笑)。
お2人と漫画について議論はしませんでしたね。ただ、お互いどう描くかジーッと観察して。石森さんは私の少女の描き方を研究していたそうです。
本当にトキワ荘にいるだけで絵が月ごとに上達しました。そんな生活が楽しすぎて結局、7カ月も居着いちゃった。家への連絡も忘れてたので、祖母から「生きてるか?」と心配した手紙が届いたのをしおに帰郷したんです(笑)。