高校進学は優等生か裕福な子に限られた時代ですから、地元の漁網工場に就職しました。朝8時から夕方5時までワイヤー編みや、40キロある網を担いで修理する。重労働の後に漫画を描くのは厳しい。時には叔父と祖母が手伝ってくれました。叔父が「よくこんなことやってるな!」ってベタ塗り作業に音を上げちゃったり(笑)。工場は漫画一本に絞るため2年で辞めました。祖母は私の行く末を心配しましたが、叔父がいつも説得、私に協力してくれたんです。
同じ頃、「少女クラブ」では『リボンの騎士』のような漫画の描き手を編集部が探していた。私の短編「赤いくつ」が彼らが欲した西洋ロマンだったお陰で、初長編『銀の花びら』を描くことになりました。57年の12月号に第1話が掲載。見ると『火の鳥』のローマ編が終わった1ページ後に私の作品が載っている。新連載は1月号から始まるのが慣例です。それを丸山さんが手塚先生から私へバトンタッチする形の配慮をしてくれた。ヒヨッコの私は描くだけで必死だから、そんな恐ろしいエールに気づきませんでした(笑)。
1958年3月上京してトキワ荘へ
1958年3月、赤塚不二夫、石森章太郎との合作のため上京。新人漫画家の憧れ、トキワ荘へ入居する。
新人だった赤塚さんと石森さんも「少女クラブ」に描いていました。その2人に私を加えたら、と丸山さんが提案して「サムソンとデリラ」を下敷きにした『赤い火と黒かみ』を発表しました。作者名はU・MIA(マイア)です。水野・石森・赤塚の頭文字を取り、3人共ワグナーのファンだったのでドイツ語っぽくUをつけてウー・マイアと読ませようと。地口で「巧いや」にもなってますしね(笑)。3人の第2作を準備している折、トキワ荘に来ないかと丸山さんから誘いがありました。
祖母とは3カ月の約束で上京したんです。3万円の敷金礼金を丸山さんが払ってくれたのもつゆ知らず、小さな鞄一つで喜び勇んでトキワ荘へ。女の子が来るって待っていた皆さんはフリーズしてる(笑)。西部劇好きの私は最高のお洒落でジーンズを穿いていったのに、当時はまだ「女の子が野良着なんて!」と驚かれたんですね。(#2に続く)
(取材・構成 岸川真)