日本中を政治不信の渦に巻き込んだ2019年の河井克行・案里夫妻による戦後最大級の選挙買収事件。逮捕後に行われた裁判で、当初克行氏は全面無罪を主張していたが、8か月半ぶりに保釈された後には一転して罪を認めた。

 保釈後に、彼が考えを一変させた理由とは何なのか。ここでは、ノンフィクションライターの常井健一氏の著書『おもちゃ 河井案里との対話』(文藝春秋)の一部を抜粋。幼少期の河井一家のエピソードから克行氏の考えの一端に迫る。(全2回の2回目/前編を読む)

河井克行氏 ©文藝春秋

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母から溺愛された「スネ夫」

 河井克行は、1963年(昭和38年)3月11日に広島県東南部の三原市に生まれた。案里とはちょうど10歳離れている。当時の総理大臣は、広島出身の池田勇人だった。

 三原は戦前から帝人が生産拠点を置く、瀬戸内の港町として栄えた。国鉄三原駅と帝人の工場を結ぶ「帝人通り」には多くの飲食店が立ち並び、24時間稼働の工場から出てきた労働者たちで日夜賑わっていた。一方で、克行が生まれた翌年には東京オリンピック直後の証券不況もあり、市内では戦後最大の倒産件数を記録。地元の有力者たちは企業城下町の地盤沈下を防ぐため、尾道市との熾烈な新幹線駅誘致合戦を展開しはじめた。

 克行が幼少期を過ごした家は、帝人の工場から三原駅を挟んで反対側にあった。三原城に隣接する駅に山陽新幹線が通ったのは1975年なので、克行が知る景色は現在とだいぶ異なる。

 案里は参院選の際、その三原を票集めの重要拠点とした。三原はかつて溝手顕正が市長を2期務めた「敵の本丸」だが、2019年当時の市長、天満祥典は県議時代の初当選同期。被買収者100人の中で2番目に多い計150万円を受け取った人物でもある。1度目は3月27日、三原港湾ビル4階の一室で天満が自身の選挙参謀を紹介した際に50万円、2度目は6月2日にリーガロイヤルホテル広島6階の鉄板焼店の個室で、自民党組織運動本部長・山口泰明と会食した際に100万円。いずれも克行から手渡されたが、犯行直前まで案里も同席し、克行とともに談笑していた。

 城下町の佇まいを残す三原駅前の旧街道から狭い路地に入り、5分ほど歩く。すると、古い寺と墓地が密集している地域に河井家が借りていた木造の長屋が残っていた。父の宏雄と母の聰子は長男の克行が幼稚園の年中に上がるまで、曹洞宗のお寺の真ん前にある六畳二間の小さな平屋で暮らした。

 克行は、コンクリートで蓋をされた防火水槽の上から飛び跳ね、黄金バットごっこに興じる無邪気な少年だった。毎年2月に近所で開かれる「神明市」という大きなだるま市が楽しみで、多くの露店を包むざわめきやお囃子の音色は大人になっても耳に残り続けた。議員時代のブログ「あらいぐまのつぶやき」によれば、家には風呂がなかった。夜になると母に手を引かれて銭湯に通った。

 克行が大きくなってからの話だが、父・宏雄は現在の廿日市市にある広島県厚生農業協同組合連合会・広島総合病院(現JA広島総合病院)という大きな病院に勤め、一時は事務長をしていた。農業団体の幹部たちはもちろん、仕事上の関係で、地元の市議や県議とも顔見知りだった。その中には、後に克行が県議選に出た際、「宏雄の息子」ということで支援を名乗り出てくれた地方政治家もいた。