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薬剤師の母

 克行には伸江という2歳年下の妹もいる。小さい頃から人見知りが激しく、近所の人たちと道端ですれ違うだけで顔をそむけてしまう。父は娘を心配し、周囲にも深く嘆いていた。

「伸江はいけんわ。人に挨拶することも、恥ずかしがってようせん」

 父も、妹も、克行が国会議員になると公設秘書になった。税金で雇われる公設秘書のポストに親族を充てることを制限する政党もあるが、自民党では黙認されている。克行はある時期まで、3つある公設枠のうち2つも家族に充てていた。

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 37歳の時に案里が現れるまで、克行の人生は母を中心に回っていた。

 1929年(昭和4年)生まれの母聰子(旧姓・村上)は新聞の訃報欄に「大阪市出身」と書かれていたが、克行の裁判証言によれば、広島県東部の沼隈郡内海町(現・福山市)で育った。瀬戸内海に浮かぶ小さな島にあり、半農半漁で暮らしていた住民らは89年に大きな橋が完成するまで、町営フェリーで本州側と行き来していた。

 島を出た母は三原に住んでいた4歳年下の父と出会い、30代半ばで第1子の克行を産んだ。職業は薬剤師。大阪医科薬科大学(旧帝国女子薬学専門学校)の同窓会報第31号(1986年11月3日発行)によれば、1950年卒業のOG会「白峯会」の中に同姓同名の女性がいることが確認できた。克行が案里と結婚してから4年が過ぎた2005年、76歳で亡くなり、葬式は広島市安佐南区内のカトリック教会で執り行われた。モニカという霊名で、高台にある小さな墓地に眠っている。

 克行は小学生になる前に1度目の引っ越しをした。母に手を引かれて広島市立山本小学校(広島市安佐南区)に入学したのは1969年4月だった。

 同年の7月21日にはアポロ11号が月面着陸を果たした。克行は両親に言われるがまま、自宅にあった小さな白黒テレビの前に座り、ニール・アームストロング船長が灰色の大地を飛び跳ねる様子に見入ったという。それがきっかけで、ひとりで空想科学小説を読み耽る男の子になった。

 安佐南区は克行が東京にいた20歳前後の一時期を除き、彼の「地元」である。初めに住んだ山本地区は、市中心部から5キロほど離れており、太田川を挟んだ北側に位置する。三菱重工業広島精機製作所の周りに無秩序に広がった新興住宅地だったため、小さな家屋と狭い生活道が入り組んでいる。

 その後、一家は安佐南区内のさらに北にある安古市町上安(現在の安東2丁目)に引っ越し、克行は広島市立安小学校に転校した。そこは原爆投下直後に「黒い雨」が降った地域で、戦後復興が進んでもなお原爆症に苦しむ人々が数多く住んでいた。彼らの多くは爆心地から遠い地域で被爆したため、長い間、被爆者健康手帳の取得が認められなかった。

 薬剤師の免許を持つ克行の母は、そのような不条理と隣り合わせの地域に「カワイ薬局」を開いた。間口が3メートルほどの小さな店構えで、中には白衣姿の聰子がひとり立つ。克行ら家族は店舗の2階に住み、新生活をスタートさせた。