黒のラインが真ん中に入った濃紺の詰襟に、同色のズボン。旧海軍将校を思わせる制服を着て、通学していた。カバンは禁止なので、勉強道具は風呂敷に包む。校則は他校よりも厳しかった。
克行少年は近所の子どもたちに勉強を教えるほど、頭の出来が良かった。毎朝5時には起床して机に向かっていたという思い出は、大人になってからも語り草にしていた。
だが、成績が良いことを鼻にかけるきらいがあり、前出の男性が言うように友だちは少なかった。一方で、いつしか「スネ夫」のあだ名で呼ばれようになった。河井家そのものも新築のマイホームを買い、克行にお金をかけて私立中学に通わせたほどだから、年々、羽振りも良くなったのだろう。
朝と晩の1日2度のお祈りを欠かさなかった克行
そんな克行は週末、母に連れられて安佐南区内のカトリック教会に通った。そこで同世代の子どもたちと出会い、仲良くなった。中でも、近所で餅屋をはじめた一家とは山口県まで一緒に旅行に出かけるなど、家族ぐるみの付き合いがはじまり、克行が政治家になると後援会役員を引き受けた。
母とカトリック。これは克行の生い立ちにつきまとうキーワードである。
母の葬儀が近所のカトリック教会で執り行われたことはすでに紹介した。克行が通った広島学院も戦後、カトリックのイエズス会信者たちが創立した学校である。克行と案里が前出の結婚披露宴を前に式を挙げたのも、広島の中心部にあるカトリック幟町教会だった。
カトリックはその後の克行の人生においてもたびたび登場し、時には心の支えとなった。
例えば、バチカンの教皇庁には2005年以降、6回も訪問している。第二次安倍政権になってからも「巡礼」を続け、安倍の親書を携えて、教皇の来日を打診。2019年11月、時の教皇フランシスコが38年ぶりに来日し、広島の原爆ドームを訪れている。ただし、仕掛け役を自負していた克行は例の買収疑惑から逃げ回っている最中で、教皇に謁見することはかなわなかった。
逮捕後の裁判で彼は当初、全面無罪を主張していたが、保釈された後に態度を一変させ、罪の大半を認めた。その理由を「20年くらい懇意にしてきたカトリックの神父から贈られた『最終的には神の前で誠実であることが第一です』との言葉が心を動かしたからだ」と法廷で証言していた。
克行は、朝と晩の1日2度のお祈りを欠かさなかった。洗礼は6歳の時で、親よりも信心深かったという話を複数の取材先で聞いた。どうして少年には信仰が必要だったのか──。私は家族が通っていた教会関係者5人に当たったが、誰も心当たりがないということだった。
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