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「うちの子と遊ばんようにしてくれ」朝5時から勉強、テレビは1日30分…母からの溺愛を受け、周囲からは“スネ夫”と呼ばれた河井克行の“神童時代”

『おもちゃ 河井案里との対話』より #2

2022/02/21

source : ノンフィクション出版

genre : ニュース, 社会, 政治

note

「町内会の役員が泣かされたことがありますよ」

──そんなに……何を恐れていたんですか。

「お母さんがすごかったねえ。まあ、ちょっとボクらじゃ考えられないこともありました。道路工事や水道管工事なんかあったらね、『今、営業しとるから、うちの前だけはやめて』と工事する人に怒鳴り込む。工事は、そこだけやらないというわけにはいかない。だから、夜にやりよった。よく工事する人が『あの人、どういう人?』と聞いてくる。どういう人かと言われても、『そういう人です』としか言いようがない。それだけやっぱり、自分の考えを貫き通しよった」

──お父さんのほうはどんな方でしたか。

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「旦那さんもよう似とりましたねー。町内会の役員が泣かされたことがありますよ。町内で工事をする許可をもらいに業者と一緒に一軒一軒、お願いに歩き回って、ハンコをもらわないといけない。河井さんちだけが反対して、町内全体で工事ができないということがあった。水洗トイレにする工事をする時に、昔は町内会の許可が要った。役員の人が『これは役所に出すのに要るんで』と言ったら、河井さんのお母さんが『要るということは、うちに何らかの迷惑をかけることを意味しているということはわかっとるんねえ』と言って、怒られたんですよ。その後、旦那さんは近所の人らに『やっぱり、水洗にはせんほうがええよ』と言って回りよった。よくしゃあしゃあと言い出すなあと思いましたよ。結局反対されて、うちは『ネポン』で我慢した。ボタン押して、泡がバーッとくる形のもん」

──克行さんはどんな子でしたか。

「ボクはね、子どもの頃しかわからん。おとなしい子でしたね。時々、散髪屋で見かけよった。待っている間、黙ってテレビを見よって、お母さんが『いいね、ここに来たらテレビ見られて』と。家で1日30分しかテレビを見せてもらえないのは、ここのあたりでは有名な話。中学は(広島)学院。ちょっと普通の子じゃ入らんで。テレビを見せない、あとは勉強。英才教育ですよね」

──やっぱり頭が良かったんですね。

「あのねえ、おもしろい話があって、あの子が友だちと遊びよるところに母親が来て、『うちの子と遊ばんようにしてくれ。キミらとは進む道が違うから』と。友だちはいなかった。同級生の子からしたらあそこは平凡じゃない、と。いらんこと言うたらお𠮟りを受けるかもしれん。一歩退いていた」

 1977年春、河井家に大きな転機が訪れる。

 一家は、薬局から2キロほど離れたところに造成された向ヶ丘団地に引っ越した。父は高台にある165平米の分譲地を購入し、庭付き、車庫付き、木造瓦葺き2階建ての一軒家(53平米)を建てたのだ。隣りの家の向こう側には、すべり台やブランコがあり、サッカーもできる大きな広場もある。宏雄は1250万円の住宅ローンを組み、その後20年をかけて完済している。

 3度目の引っ越しをする前の年には、克行が私立の中高一貫校、広島学院に受かった。通称「学院」は有名大学への進学率では県下トップクラスの男子校で、同級生にはタレントの風見しんごや社会学者の佐藤俊樹(後の東京大学教授)がいた。