なぜ「青森」は海に向かって伸びているのか
青森は、津軽藩の外港として賑わった江戸時代のはじめに町が興り、江戸時代の終わり頃からは北海道と本州を結ぶ交通の要衝地となった。はじめて青函航路が運航されたのは1861年のことで、明治に入って1873年には北海道開拓使が月に4往復の定期航路を開設する。
その後は三菱や共同運輸も相次いで青函航路に進出し、1908年には鉄道と直接連絡する青函連絡船が登場。以降、約80年にわたって本州と北海道を結ぶ大動脈としての役割を担った。その本州側のターミナルが、青森だったのだ。
青森駅が海に向かって伸びているというのは、こうした事情による。駅の設置を巡っては、青森の町の人たちの間で駅候補地の買い占めなどがあったらしく、なかなか駅の場所が決まらなかったという。
そのあげく、このまま駅の場所が決まらないと鉄道は他の町に行っちゃうよ、などという噂が流れ、結局当時の市街地の西の外れに青森駅が開業した。1891年、当時の日本鉄道による路線の終着駅であった。
「青森」と青函連絡船
日本鉄道は1906年に国有化され、青函連絡船が運航を開始したのは1908年のこと。海に落ちる寸前まで伸びている線路は、この青函連絡船に直接つなげるための設備があった名残だ。
列車を降りたお客はそのまま跨線橋を渡って桟橋に向かい、連絡船に乗り込んで北海道を目指す。貨物列車は駅構内で入れ替え作業を行って、貨車をそのまま船に積み込んでいた。ワ・ラッセやA-FACTORYのあたりは、かつてそうした設備があった場所である。
青函連絡船現役時代の地図や航空写真などを見ると、船が着岸する岸壁は3つあり、いちばん南の第1岸はA-FACTORYとワ・ラッセに挟まれた入り江のあたり。第2岸はちょうど八甲田丸があるところで、海に突き出た第3岸の岸側は埠頭公園として整備されている。連絡船時代の構造がそのままに、青森駅には残っているというわけだ。
現在の新しい駅舎の前、4代目の駅舎は連絡船華やかなりし1959年の完成。つまり、石川さゆりさんも渡った連絡船のあの時代と同じ駅舎であった。以前訪れたことがあるが、確かにあの歌詞が頭に浮かぶような、旅情溢れる駅舎だったと記憶している。そんな青森駅舎が建て替えられてしまったということは、ひとつ連絡船時代の名残が消えたということで、それはそれで寂しくもある。
もちろん、青函連絡船はとうの昔に廃止されている。1988年、青函トンネルが開通したからだ。それ以降も青森駅を終着とする夜行列車が走っていたし、青森駅で青函トンネルを通り抜ける列車に乗り継ぐこともできたから、しばらくは本州と北海道を結ぶ交通の要衝という役割を維持していた。