昨年11月、兵庫県尼崎市の風俗街「かんなみ新地」が、約70年の歴史に幕を下ろした。市と警察署からの営業中止の要請をきっかけとして、約30軒あった店は風俗営業を休止。その後、「かんなみ新地組合」が解散した。一部は一般の飲食店などとして営業を続けているものの、多くの店は廃業申請をすることになった。
歴史ある新地の営業停止は、関西の他の「新地」にも少なからず影響を及ぼしていた。大阪にある今里新地もその風波を受けたひとつだ。かつては芸事で栄えた色街はいま、どうなっているのか。
『娼婦たちから見た日本』(角川文庫)、『青線 売春の記憶を刻む旅』(集英社文庫)の著作で知られるノンフィクション作家・八木澤高明氏が現地を歩いた。(全3回の2回目/#1、#3を読む)
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13人の芸妓からスタートした今里新地
近鉄今里駅前――。
目抜き通りには大きなタコ焼き屋がある。地元の人には見慣れた景色なのかもしれないが、関東の人間からすれば「大阪に来た」ことを実感する。
そこから10分ほどかけてゆっくり歩いていくと、薄暗い通りにぼんやりと明かりが灯っているのが見えた。
その明かりとは、営業している今里新地の茶屋のものだ。
茶屋と呼ばれるのは、今里新地は昭和のはじめに芸者が芸を売る花街として誕生しているからである。芸者の中には純粋に芸を売るだけでなく、「転び」と呼ばれる娼婦と変わらない者も少なくなかった。
花街として生まれたものの、今となっては茶屋というのは名ばかりで、すでに今里新地には芸者はいない。唯一の名残りは、飛田新地のように娼婦がやり手のおばさんと並んで座っていることはなく、かつての置屋のように待機している場所から送り込まれてくることである。
ここで遊ぼうと思えば、女性を直接選べるわけではなく、やり手のおばさんとの交渉になる。
そもそも今里新地ができたのは、1929年(昭和4年)のことだった。開業した当初は13人の芸妓からスタートした。田んぼを埋め立てて作られたため、開業当初はひと雨降れば、道がぬかるむだけでなく、建物が浮くような状態だったという。