戦後には「100軒の店に300人の娼婦」まで拡大した今里新地
芸妓たちはお座敷にあがるのに、男衆に背負われて向かったと『今里新地十年史』は記している。
そんな状態からはじまった今里新地だったが、年々発展していき、戦後には100軒の店に300人の娼婦がいるまでに規模が拡大した。その背景には、今里新地の経営者の努力とともに、大阪が工業の街として発展したことがあった。今里新地の周辺には、中小の町工場も多く、そこの旦那衆に支えられてきた側面があったのだ。
私が初めて今里を訪ねたのは、かんなみ新地を訪ねたのと同じ3年前の夏のことだった。
すでに日が暮れていたが、うんざりする暑さのなか、一軒の茶屋で遣り手のおばさんと話したことが印象に残っていた。
誰かに話を聞けないかと歩いていると「暑いなぁ、よかったら涼んでいき」と優しく声をかけてくれたのだった。落ち着いていて、余裕のある彼女の態度は多くの男たちが行き交う、飛田新地からは感じられないものだった。
茶屋の跡に出店した「アジア系の店」
私は渡りに船で、彼女から昔話をはじめ色々と話を聞いた。
「ここのお母さんは、60年ぐらいここで商売してるんちゃうかな。昔はこの通りの端から端まで全部、お茶屋さんやったけど、今じゃ寂しくなってしまったな。今じゃマンションになっているところもお茶屋さんだったんです。100軒はあったんじゃないかな」
店がある通りは、ざっと見たところ、100メートル以上の長さがある。だが、通りに並んでいる店は、韓国料理屋やベトナム料理屋、マンションなどになっている。茶屋がなくなっていくと、そこにアジア系の店が出店してきたのだった。最近では、中国人も積極的に物件を押さえているという。
「お姉さんは、どれくらい働いているんですか?」
「私で18年ぐらいになるね。その頃にはまだ芸妓さんを乗せて、今宮戎に宝恵駕(ほいかご)っていうのが出ていたんですよ。いまじゃもうやってないですけどね」
宝恵駕というのは、大阪ミナミの芸者衆が駕に乗って、今宮戎神社に参詣したことが起源となり、戦前の最盛期には100挺もの駕が繰り出したという。花街として産声をあげた今里新地の歴史を物語るエピソードだ。
「宝恵駕を出そうと思ったら、最低でも300万ぐらいはかかるもんなんですよ。ごっつお金がかかるもんなんで、よっぽどのスポンサーがいないと無理なんです。もう今は本芸妓さんもいないですしね。昔は、本芸妓さんとお客さんと遊ぶ、転ぶ芸妓さんがいたんです」