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最貧困階層の女性たちは、毎年1万人以上も慰安婦に

『反日種族主義 日韓危機の根源』(文藝春秋)

 ソウル市城東区と群山市では、彼女たちが1日に何人の客と接したのかまで調べられました。城東区の144人は1日平均3.7人、群山市の188人は1日平均4.4人と接しました。

 群山市の場合は1日の性交回数も調べられ、平均5.5回でした。少し前に述べたように、韓国軍慰安婦の場合、1日平均6.3回でした。それに比べると少ないかもしれませんが、民間慰安婦の労働強度も同じく高かったのです。この情報は非常に貴重です。軍部隊の天幕内の女性たちと集娼村の女性たちは、具体的な存在形態において同様でした。

 城東区と群山市では、慰安婦の月所得が調べられました。城東区では月平均5556ウォン、群山市では月平均3455ウォンでした。1964年の製造業従事者の平均賃金は3880ウォンでした。女子従業員の月給は、平均額に到底及ばない2500ウォン程度でした。しかも、小学校卒業以下の学歴の女性には、就業の機会すらありませんでした。これからすると慰安婦の所得は、相対的に高い水準でした。そのため、最貧困階層の女性たちが毎年1万人以上も慰安婦になったのです。

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 ほとんどの女性たちは、2年以内に、若干の貯蓄と共に私娼街を脱出しました。しかし、全ての女性がそうだったわけではありません。抱え主に負わされた借金の罠(わな)に嵌まり、抜け出せずにいた女性も多かったのです。民間慰安婦に対する政府の管理と監督は、非常に疎(おろそ)かでした。悪徳抱え主の慰安婦に対する奴隷的支配は、賄賂(わいろ)で繫がった第一線警察との結託の下で公然と行なわれました。奴隷的束縛に抵抗する女性たちには暴力が加えられました。

 私は、そのような場面を何回か見たことがあります。1976年、ソウルの東大門の外側にある昌信洞(チャンシン)のある家で家庭教師をしていた頃のことです。近くの東大門付近には、 私娼街が発達していました。ある日の夜8時頃の薄暗い裏路地でした。ある男が棒で20歳前後の若い女性を乱暴に殴っていました。壁にもたれ、しゃがんだまま殴られているその女性は、悲鳴をあげながら、両手で拝むようにして謝っていました。田舎から無計画に上京し、「友人からの誘い」か人身売買に遭って私娼街に身を落としてしまった少女だったのでしょう。私はじっと見ているしかありませんでした。今でもその場面が生々しく目に浮かびます。