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「我々の中の慰安婦」最も長く代表するのは米軍慰安婦

 解放後、「我々の中の慰安婦」を最も長く代表するのが、他ならぬ米軍慰安婦です。 民間で一般に用いられた呼び名は、洋嫁(ヤンセクシ)、洋姫(ヤンゴンジュ)、洋ガル ボ(ヤンガルボ)など(いずれも売春婦を貶めていう言葉)ですが、公式的な呼称は「米軍慰安婦」でした。1970年代に入ると、民間で性売買をする女性をもう慰安婦とは呼ばなくなりますが、米軍慰安婦にだけは1990年代まで、「慰安婦」という言葉が公式的な行政用語として使われ続けました。それで、慰安婦の歴史を最も長く代表したのです。

 米軍慰安婦の数がどのくらいかは正確には分かりませんが、おおよそ1万人程度と 推定されています。五・一六(1961年5月16日に起きた軍事クーデター)以降、朴正熙軍事政権は、米軍慰安婦を組合か協会に強制登録させましたが、その際、おおよそ1万人という数値が新聞で何回か報道されました。全国にわたって、米軍部隊が駐屯していたところでは基地村が発達しました。

 坡州(パジュ)が最も繁盛していて38カ所の基地村に5000人がおり、次いで烏山(オサン)の基地村に1900人、その次は平沢(ピョンテク)の基地村で600人いました。その他、東豆川(トンドゥチョン)、楊州(ヤンジュ)、富平、抱川(ポチョン)、群山、倭館(ウェグァン)、釜山などが基地村として有名でした。

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写真はイメージ ©️iStock.com

米軍慰安婦は高学歴

 米軍慰安婦の実態に関しては、1964年に朴大根(パクテグン)という人が、群山市保健所に登録された民間慰安婦188人と共に、米軍慰安婦132人を調査した修士学位論文を参照することができます。それによると、米軍慰安婦の年齢は平均27歳で、民間慰安婦の21歳より高く、学歴は、民間慰安婦より米軍慰安婦のほうが高いことが分かります。米軍慰安婦には高校卒業または大学中退者までいたそうです。

 この相対的に高学歴の女性たちが慰安婦になったのは、米国の軍人と結婚し、アメリカに行くためだったそうです。従事した期間を見ると、民間慰安婦は平均2.5年であるのに対し、米軍慰安婦はより長く、平均3年です。履歴では大差はありませんでした。戦争で家庭が破壊されて孤児院を転々としたり、極貧階層の娘で女中生活を送ったあとに、 ある程度の年齢になって「友人からの誘い」か「男からの誘惑」により基地村に流れて行く、というのが一般的でした。

 労働強度を見ると、少し前に紹介したように、民間慰安婦の性交が1日平均5.5回であったのに対し、米軍慰安婦は平均1.7回に過ぎませんでした。米軍慰安婦の半分は契約同居の形態で、慰安する相手が固定された場合が多かったのです。そうでない慰安婦は、基地村のクラブに行き、遊びに来る米軍を相手に性売買をしました。米軍慰安婦の月所得は、民間慰安婦が3455ウォンであるのに対し、1万1423ウォンもありました。月生活費はそれぞれ2062ウォンと8757ウォンであり、月貯蓄額は1393ウォンと2666ウォンでした。このことから、米軍慰安婦の境遇は民間慰安婦より良かったと言うことができます。