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「私のトスは(江上)由美さんの作品でもあるんです」

 それはとりもなおさず、ロサンゼルス、ソウル五輪と日立主体の全日本を作り、自分が指揮を執(と)るという意思表明でもあった。中田の成長は、それほど大きかった。

 だが一方の中田は、自分は決して天才と言われる類の選手ではないと語気を強める。

「すべて反復練習です。ただ、練習のときに一球一球に意識を持ち、身体だけでなく脳ミソにも汗をかいた。すべて練習の成果です。ただ、ロス五輪までのトスは(江上)由美さんに育てられた。由美さんは、世界一の速さを持ったアタッカーだった。由美さんのスピードに負けないよう私も必死でトスを上げた。私のトスは由美さんの作品でもあるんです」

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 江上は不運な選手だった。モントリオール五輪の年に日立に入社し、白井がいることからセンターにコンバートされ、20歳で日立の主将になったもののモントリオールの中心メンバーがごっそり抜けたため、チームのどん底を味わっている。全日本ではユニチカ中心のメンバーに加わり、脂が乗ってきたモスクワ五輪のときに不参加の憂き目に遭う。

ロス五輪記者会見時の山田重雄氏(右)と江上由美選手(左) ©文藝春秋

 だが、逆風をかき分けてきたからこそ速攻の技術を高め、そのテクニックで中田を育てることが出来たのだ。

 江上が言う。

「私の時代は、日立も全日本もセッターが固定されていなかった。そうすると、それぞれのトスに合わせた打ち方を考えなければいけない。色んなセッターの球質に合わせようと努力していたら、知らず知らずのうちに攻撃の幅が広がったのかも……」