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 ゴールデン・レトリバーを引き取った友人宅は、800mほどの場所にあり、そこへも散歩で行った。保健所では別のオリに入れられていたので、2頭は一緒にいたわけではない。だが、何か通じるものがあったのだろう。訪れるたびに姉妹のようにじゃれ合った。

 愛嬌のあるリリーは、次第に地域の人気者になっていった。犬小屋が道路のそばにあったので、子供達が学校の行き帰りに「リリー」と声を掛ける。じゃれて遊ぶ子もいた。自転車通勤の途中、「リリー、お早う」と手を振る人もいた。リリーは「ワン」と返事をするのが日課だった。

阿武隈高地の山里。津島には美しい景色が広がるが

 今野さんは肉がそれほど好きではなかったが、リリーが骨をおいしそうに食べるので、わざわざ骨つきの肉を買ってくることもあった。

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 ところが――。

 2011年3月11日の午後2時46分、東日本大震災が発生した。

福島第1原発が暴走

 浪江町は震度6強。太平洋岸に津波が押し寄せるなどして182人が犠牲になった。だが、津島の被害はあまりなかった。阿武隈高地は岩盤が堅かったのである。停電もしなかった。

 福島県庁を退職後、第2の職場の福島県社会福祉協議会(福島市)に勤めていた今野さんは、バタバタと震災対応に追われ、車で1時間ほどの津島に帰ったのは真夜中だった。「途中の道路は停電で真っ暗でした。津島に入ると街灯が点いていて、ホッとしたのを覚えています」と語る。

 地震だけなら、津島はすぐに「日常」を取り戻せただろう。しかし、東京電力福島第1原発が暴走した。

浪江町の海岸からは、東京電力福島第1原発が見える
津波に呑まれた浪江町立請戸小学校は震災遺構として残された

 震災翌日の3月12日早朝、政府は原発の10km圏に避難指示を出した。午後3時36分に1号機建屋が爆発。夕方には避難指示区域が20km圏に拡大された。

 原発から浪江町役場までは約8kmしかない。爆発の後、役場の近くでは空からキラキラと光る物が降ってきたのを見た人もいるほどだ。

津島に避難してきた人々

 このため浪江町は役場のある平野部から海岸にかけてのエリアで避難せざるを得なくなった。目指したのは原発から約30km離れた津島だ。町役場は庁舎を閉鎖して全職員を津島支所へ退避させ、当時の町民も約2万1500人のうち8000人以上が津島に集結したとされる。

 1400人ほどしか住んでいなかった津島は、人であふれ返った。避難所に使える施設は少ない。足の踏み場もないほどの混雑となり、屋内に入れなかった人はさらに遠方へ逃げて行った。

 今野さんは「津島にとどまった人も、避難所にじっとしてはおられず、あてどなく津島のまちを歩く避難者が大勢いました。大げさかもしれませんが、東京の銀座のようでした」と振り返る。自身は津島に8つある行政区のうち、「下津島」(約50軒)の区長を務めていたので、避難者の誘導や焚き出しに奔走した。