メンツをかけた犯人逮捕の“手柄合戦”
また、江崎グリコの番頭格として知られた前社長の大久保武夫会長(当時)は、当初の捜査に協力的ではなかったとされ、大阪府警は「その原因を作ったのは兵庫県警」と考えていたフシもある。
こうした状況を、メディアも敏感に感じ取っていたようだ。事件発生から間もない3月26日には早くも次のような記事も出ている。
<事件発生直後はそれぞれが捜査本部をつくって別個に捜査、二十三日にやっと合同捜査の体制ができ上がった。というのも双方が事件の現場を持っているため、当初からメンツをかけた犯人逮捕の“手柄合戦”が繰り広げられている。江崎社長保護の翌日(二十二日)に開かれた「合同捜査会議」(西宮署)でも、以後の体制を決めただけのもので、会議後「こちらが一方的に情報の説明をするばかりで、兵庫側は手の内を明かさない。何のための会議だ」(府警)などと不満の声が流れたほど。
現在でも「これまでのところ大阪の方に手掛かりが多い。それだけに兵庫は頑張らないと」(県警)とか、「事件の初動捜査で兵庫県警は慌てたらしい。もっと早く連絡してくれれば手を打てたはず」(府警の捜査員)とかの声が聞かれる。大阪府警内部では「身代金の要求電話がかかった際、受け取り場所を兵庫県内に指定しろ、と県警は奥さんに言い含めていたらしい」との、まことしやかなうわささえ飛んでおり、合同捜査体制が本当に両府県警一心同体の捜査になるのは先のことになりそうだ。>(『日本経済新聞』1984年3月26日)
3日前に江崎社長の自宅の鑑識を担当した私は、監禁場所となっていた大阪・摂津市の水防倉庫に駆けつけた。
普段はほとんど使用されていないプレハブ2階建ての倉庫で、広さは約33平方メートル。
内部には水害を防止するための用具が収納されており、1階にはクイが500本、2階にはスコップや土嚢などが積まれていたが、江崎社長はこの2階に手足を縛られて監禁されていた。