昭和最大の未解決事件のひとつ、「グリコ・森永事件」。1984年3月から1年5カ月にわたり、「かい人21面相」を名乗るグループが食品企業を次々と脅迫。日本事件史上、類を見ない「劇場型犯罪」に日本列島は震撼した。
事件から40年近くが経過し、未だに多くの謎を残すこの事件。当時、捜査の現場では一体何が起こっていたのだろうか?
捜査一課の調査員としてグリコ・森永事件の捜査を担当した兵庫県警の山下征士氏が、自身が携わった多くの事件について記した著書『二本の棘 兵庫県警捜査秘録』(KADOKAWA)より、事件に関する一部を抜粋して転載する。(全2回の2回目/前編を読む)
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大阪府警と兵庫県警による「主導権争い」
実はこのときから、大阪府警と兵庫県警の間ですでに主導権争いが生じていた。
最初に捜査本部が設置されたのは兵庫県警であったが、直後に大阪府に住むグリコ役員宅に脅迫電話がかかってきたことから、大阪府警も捜査本部を設置。数日後から大阪府警と兵庫県警の合同捜査本部(大阪・高槻署と兵庫・西宮署)が捜査することになった。
江崎社長が発見された場所が大阪府だったため、まず高槻署が事情聴取を行ない、次に兵庫県警も聴取する。こうなると、両者の力関係から大阪が主導権を握り、現場を仕切りがちになるが、当時の兵庫県警としては「これはもともと自分たちの事件だ」という意識がある。「早く社長の身柄をこっちに引き渡せ」という勢いで大阪府警に迫ったのは、まず間違いなかったはずだ。互いに何かを隠しているのではないかという警戒感が、すでにこの段階で生じていた。
合同捜査本部なのに、江崎社長をそれぞれ取り調べた内容は共有しなかったと聞いた。当時、誘拐事件を担当する兵庫県警の警戒班のメンバーは保秘について厳格な考えを持つ刑事が多く、内部に対しても外部に対しても情報を出さない傾向が強かったため、「そうなりよるやろな」と思っていた刑事は多かった。