『機動警察パトレイバー』や『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』など国内外で絶賛されるアニメ映画を作り続ける押井守監督。そんな監督が「エンタメの大魔王」と呼んだ1人の映画監督とその作品とは? 監督の極私的映画史50年分を綴った『押井守の映画50年50本』(立東舎)より紹介。

押井守監督 ©文藝春秋

世界一成功した監督の欠点

――『宇宙戦争』は、スティーヴン・スピルバーグが1990年代後半に映画化を目論んだのですが、ローランド・エメリッヒの『インディペンデンス・デイ』(1996)に先を越されたので、10年近く寝かせていたという経緯があります。

押井 スピルバーグって、そういう企画を山ほどかかえた監督なんだろうね。あれもこれも全部やりたい。どういう順番でやろうかな、というさ。世界一成功して、世界一有名になった監督の贅沢な特権だけど、逆に言うと「いまこれでなければならない」理由が常にない。それがスピルバーグの欠点だよね。

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――鋭い指摘ですね。

押井 あらゆるものを手に入れて、自由まで手に入れてしまった。気がついたら「なにを真っ先に撮りたいか?」が分からなくなってしまった。スピルバーグは映画の申し子であり、映画ファンがそのまま映画監督になったような人だから、屈折がない。本人に屈折がないから、屈折がない子どもを映画のテーマにせざるをえない。

 女優でもなければ、男優でもない、子どもという要素でしか映画に入る取っ掛かりを見つけられないんだよ。だからスピルバーグの映画には、やたらと子どもが出てくる。この映画に子どもは要らないでしょ!?という作品にまで子どもが出てくる。

――子どもが出てこないスピルバーグ映画も多少ありますが?

押井 子どもが出てこない場合は、だいたい「言いわけ映画」になっている。ロマン・ポランスキーのような自身のトラウマに対する言いわけではなくて、「こういう映画も撮れますよ」という自己弁明映画。アメリカ南部の黒人女性の生きざまを描いた『カラーパープル』(1985)だったり、ミュンヘンオリンピック事件に端を発するモサドの活動を描いた『ミュンヘン』(2005)だったり。いわゆる社会派の映画を娯楽映画の反動として作ってしまう。

 戦争映画の『プライベート・ライアン』にも言いわけの要素があるかもしれない。人間ドラマを装って、装ったがゆえにエンディングが低迷してしまった。おじいさんになったライアンが一族を連れて墓参りをするシーンのことなんだけど。トム・ハンクスが演じた大尉に「俺の分まで豊かに生きろ」と言われて、「たしかに豊かに生きました!」というのを表現しているだけの蛇足だから。

 やりすぎのやりすぎ。画竜点睛どころか、目ン玉を大きく描きすぎている。あの蛇足のせいで映画が台無しになっている。戦争映画としてはかなりな出来なのに。そういう蛇足を、娯楽監督の言いわけとしてついついやってしまう癖がある。