「えっ、松重豊って今日、生で出演するの?」「日本語朗読って書いてあるから、録音音声が流れるんじゃないの。今、ドラマで引っ張りだこでしょう彼は」

 2022年1月8日、東京芸術劇場で上演された「東京芸術劇場コンサートオペラvol.8 ビゼー/劇音楽『アルルの女』 プーランク/オペラ『人間の声』」の客席で、筆者の周囲ではそんな風に囁き合うクラシックファンの声が聞こえていた。

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主役以外の男性すべてをひとりで演じ分ける演技力

『孤独のグルメ』『バイプレイヤーズ』などのヒットによって、松重豊は今や主演でも助演でも重用されるスター俳優であるという認識が一般にも定着しつつある。それだけに、演劇の舞台でもないクラシックコンサートのゲストとして、ましてや朗読のためだけに東京芸術劇場に生出演する時間はないのではないか、と思った観客がいたのも無理はないだろう。

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 しかしオーケストラの演奏が始まり、オペラ『人間の声』の後で休憩をはさんでビゼーの『アルルの女』が始まると、松重豊は共演の東京演劇道場の俳優たちとともに舞台に姿を現した。メガネをかけ、190cm近い痩身にシンプルな白いシャツを着たその姿は、売れっ子芸能人というよりは学者か芸術家のようにストイックで洗練されて見えた。

 戯曲『アルルの女』の主役は、フレデリという名の恋に悩む青年である。アルルの闘牛場で見かけた女に恋する彼は、故郷に優しい家族と献身的な婚約者に恵まれながら、「アルルの女」への思いを断ち切れずに自ら命を断つ。『カルメン』と並んでビゼーの二大傑作と呼ばれる音楽劇だ。

 だが、その日の観客の度肝を抜いたのは、松重豊と共演の藤井咲有里の「ベテラン助演組」の方だったろう。壇上に並ぶ朗読俳優はたったの4人。主役のフレデリを木山廉彬、その弟を的場祐太が演じる他は、メインの語りに加えて男の登場人物はすべて松重豊、女の登場人物は小娘のヴィヴィエットから老母ローザまですべて藤井咲有里が演じ分けるという驚くような構成だった。

 年齢差が30も40もあろうかという老母と婚約者を演じ分ける藤井咲有里の声帯のコントロールもさることながら、同年代の壮年男性に1人ずつ明確なキャラクターを与える松重豊の演技の豊かさにも驚かされた。ドラマで見る松重豊の役柄には「無愛想で無骨な男」という共通点があるが、それは制作側がそうしたキャラクターを求めそれに応えるからであり、俳優の内部にはこれほど多くの演技人格が眠っていたのかと驚く思いだった。

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「松重豊って、やっぱり上手いのねえ」「あの女優さん(藤井咲有里)は本当は何歳なんだ。まるで別人の声がよく出るもんだ」終演後のロビーでは、そんなクラシックファンたちの驚きの声があちこちで聞かれた。

 テレビ放送やDVD発売のためのカメラも会場にはなく、演劇のロングラン公演でもない、ただ一日だけのクラシック演奏会のゲストとして、俳優たちはあの見事な演技を磨き上げたことになる。中でも忙殺されているはずのテレビ映画出演の中、一度きりの舞台で助演俳優の凄みを見せつけるような松重豊の演技は、2ヶ月経った今も鮮明に記憶に残っている。