「西の壁が取れてなくなっていました」
午後11時36分、「最初の揺れより激しく感じました。東日本大震災を含めて、これまで経験した中では一番大きかったと思います。家全体がギシギシと音を立てました」と立谷市長は振り返る。
すぐには分からなかったが、「自宅は西の壁が取れてなくなっていました。床は波打ち、ところどころで石膏ボードが落ちたり、折れ曲がったりしました。隙間が何センチもできた柱もあります」と話す。もし1回目の地震で部屋を脱出できていなかったら、どうなったことだろう。
とりあえず、周囲にあったズボンをパジャマの上にはいた。ベルトは見つからなかったので通さなかった。上着もたまたま手が届く範囲にあった黄色いダウンジャケットをパジャマに羽織った。首に巻いたタオルがそのままだったことは、かなり後になってから気付いた。
県議から市長となり、6期目の立谷市長は、もともと内科医で、自ら経営する相馬中央病院の現理事長だ。同居している30代半ばの息子は、そこで働く外科医で、2階から起きて来て、急いで病院へ向かおうとしていた。家の中だと不安そうにしていた妻には「車にいるように」と言い残し、自分の車に飛び乗った。
「次の死者」を出さないために
市役所に到着した時には、まだ日付が変わっていなかった。市内は全域で停電していたが、庁内は非常電源の明かりが点いていた。
火災が起きていないか。倒壊家屋がないか。相馬中央病院と公立相馬総合病院という市内で二つの救急医療機関がどうなっているか――。確認するよう職員に指示を出した。
相馬市などの海岸には津波注意報が出ていた。同市では東日本大震災による津波で458人が犠牲になっている。だが、高台移転が終わっており、河口や海に近寄らなければ心配はないと、市長は感じていた。
ただ、揺れが酷かったことから、家屋の損壊はかなりの規模になっていると想像できた。残念なことに、地震に驚いた市民1人が自宅の2階から落ちて、ショック死していた。
「首長がまず考えなければならないのは、『次の死者』を出さないことです。そのためには市民の落ち着いた行動が求められます。市役所も信頼してもらわなければなりません。だからこそ市長が健在で陣頭指揮を取っているんだと知らせる必要がありました。私が一刻も早く市役所へ向かおうと考えたのは、そういう思いもあったからでした」と力説する。
市役所到着から30分後、立谷市長は防災無線のマイクを握り、「現在は停電中ですが、倒れた家具などでケガをしないよう十分に気をつけてください。なお、東日本大震災のような大きな津波は発生していません。大きな火災も起きていません」と放送を始め、繰り返し「落ち着いて」と述べた。
「放送では何を言っているか分からなかったという人もいました。でも、市長が自分の声でしゃべっていると伝わることが重要なのです」と立谷市長は言う。